『「安南王国」の夢』
2012年4月号
連載 [BOOK Review]
by 石田修大
日本人の内向き志向が懸念されているが、内向きでいられるのは、自国内で生きていけるからでもあり、考えようによっては贅沢な環境ともいえる。世界には、生きるために海外に活路を求めざるを得ない人々、否応なく故国を追われる人々が、今も大勢いる。
九州・天草生まれの松下光廣も明治末年、生きるために15歳で仏印(仏領インドシナ)ハノイを目指した。その6年前、ベトナム王朝の末裔クオン・デは、フランスからの独立の夢を、日露戦争に勝利した日本の支援で果たすべく、家族を置いて単身故国を脱出していた。
ベトナムで貿易商として成功した松下は、やがてクオン・デを知り、ベトナム独立のため彼の“現地代行”として全面協力する。太平洋戦争による日本軍の仏印進駐、敗戦、ベトナムなど旧仏印諸国のつかの間の独立、宗主国フランスとのインドシナ戦争、南北ベトナムの分断と、歴史の激変に翻弄され、クオン・デは戦後間もなく、志を果たせぬまま飯田橋の病院で寂しく息を引き取る。松下もまたベトナム戦争のあと、全資産を没収され、故郷天草に舞い戻った。
ベトナム戦争終結時に新聞社の特派員だった著者は、『サイゴンの火焔樹』『特務機関長 許斐氏利』(いずれもウェッジ刊)の2冊を上梓しており、今回は、いわば“ベトナム3部作”の完結編。前2作がベトナム戦争や特務機関に焦点を当てたのに対し、今回は帯にあるように「百年にわたる日越交流」の側面史になっている。
物語の主役は日本に“亡命”したクオン・デと、ベトナムで奔走する松下という、故国を離れた二人だが、著者は周辺に膨大な数の登場人物を配して、インドシナや天草、日本、フランスの入り組んだ歴史を解き起こす。クオン・デを受け入れた大隈重信、犬養毅、さらに大川周明とその塾生たち、さまざまな思惑を抱く軍部の要人たち、ベトナム側ではファン・ボイ・チャウ、バオダイ帝、ホー・チ・ミン、ゴ・ディン・ジェム、カオダイ教徒等々。
日越両国を行きつ戻りつ、“端役”ともいえる人々の経歴や行動までが丁寧に掘り起こされ、書きとめられる。彼らの大部分は歴史的評価から排除されてきた存在だが、著者はあとがきで日本軍の東南アジア進出について「『侵略戦争』や『ファシズム』という言葉ですべてを一括りにすれば……歴史の真相は見失われるのではないか」と反論する。
大局的、政治的な正史に対し、ジャーナリズムは自ら語るべき言葉を持たない人々をして語らしめる稗史の立場にある。本書はベトナム戦争の終焉を目撃したジャーナリストが止むに止まれず書き起こした、日越両国をつなぐ無名の人々への墓碑銘ともいうべき一冊である。