『倉富勇三郎日記 第一巻』
2011年2月号
連載 [BOOK Review]
by 山本一生
まず手にとって、そのボリュームに圧倒される。日記本文は2段組で844ページ、解説と索引をいれると930ページ、それでも大正8年、9年の2年分にしかすぎない。しかもシリーズは全9巻、昭和9年までの日記の刊行が予定されていて、そのうえ倉富の文字は判読が難しく、翻刻には多大な時間を要する。編者である倉富勇三郎日記研究会の方々からすると、シベリア鉄道を徒歩で行くような思いではないだろうか。
日記が膨大になったのは、特異な書き方による。役所での会議や訪問客への応答はもちろん、家庭内の身辺雑記に至るまで、まるで「ディテールに神宿る」といわんばかりに、事細かに記されている。だがそれによって、通常の日記にはない臨場感が生まれていることもたしかである。初出の人物の役職を明記するなど、丁寧に編集されており、系図でも横において読み始めれば、面白い大長編小説を読むように、それほど長さを感じないだろう。
倉富勇三郎は嘉永6(1853)年に久留米で生まれている。司法省法学校速成科卒業後は司法官僚の道を歩み、大正2年には第1次山本内閣の法制局長官に任命される。大正5年に宮内省に転じ、14年には天皇の最高諮問機関である枢密院の副議長となり、翌年から昭和9年まで議長を務める。宮内省時代には、宮中某重大事件、帝室制度審議会、摂政設置問題などの難題にかかわり、枢密院時代には、金融恐慌やロンドン海軍軍縮条約などで政党と対峙している。会談や密談、雑談まで記されている倉富日記が、大正8年に始まることを考えると、この時期の研究者にとって最重要史料となっているのも納得がいく。
倉富はまた、長らく旧久留米藩主有馬伯爵家の家政相談人を務めており、日記には有馬家の内情が詳細に記されている。有馬頼寧日記や石井光次郎日記、有馬頼義の小説など、有馬家周辺の史料は揃っており、倉富日記の刊行によって、大正から昭和にかけての典型的な大名華族の歴史をたどることも可能になる。
第一巻では宮内省が、皇族の臣籍降下の「施行準則」の問題で大荒れとなっている。枢密院で決定した案に皇族の一部から異議が唱えられたからで、みずからの利害に関わると皇族たちが、じつに人間的に行動していて興味深い。
有馬家では、大正期の新人類有馬頼寧に手こずらされる。恋に落ちた頼寧は、爵位継承の放棄まで覚悟して、留学の名目で女とともに渡米を企て、倉富を悩ませる。
そのほかにも、猛威を振るうスペイン風邪の様子や柳田国男の貴族院書記官長辞職の経緯、俳人松根東洋城と山尾子爵夫人との不倫なども出てくる。さらには、当時の長距離旅行の様子や電話の混線の模様、の療治法など日常の細部にまで筆は及んでいる。その意味で倉富日記の刊行は、研究者のみならず、私たちにも多くの発見をもたらしてくれるであろう。
ともあれ先は長い。全巻が無事に翻刻されることを祈りたい。そのためには、尊敬でも敬意でも、讃辞でもエールでも、なんでも贈りたいと思う。この仕事は、それほど貴重な文化事業なのである。