『すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇』
2009年6月号
連載 [BOOK Review]
by 石
スウィフトの『ガリバー旅行記』に飛ぶ島ラピュータが出てくる。数学、天文学、音楽を司るインテリが支配する国で、彼らは理論的整合性や幾何学的美しさのみに心を奪われ、理屈の合わない現実問題は切り捨ててしまう。冷静な観察者ガリバーならいいが、そんな国に猪突猛進のドン・キホーテが乗りこんだらどうなるか。
1940年生まれで東大応用物理学科を卒業し、米スタンフォード大大学院のオペレーションズ・リサーチ(OR)学科博士課程を修了した著者は、筑波大学を経て、40歳代で東京工業大学の一般教育・統計学教授に就任する(現在は中央大学理工学部教授)。故江藤淳、故永井陽之助らうるさ型の文系教官が集まる人文社会群の唯一の理系教官の目に映った東工大は、まるでラピュータ国だった。著者も反目し合う先輩教授らの衝突に翻弄される。
だが著者はドン・キホーテではない。常識をわきまえ、唯我独尊の教授連や大学当局と巧みに折り合い、ようやく助手を採用できる立場になる。経営システム工学科の助教授の推薦で助手にしたのが、数学的能力では右に出る者がいないという当時28歳の白川浩博士。1年の半分近い4千時間も勉強に費やす猛烈な研究者だったが、自分より能力の劣る教授らを大声で罵倒する「誤解を招きやすい性格」の持ち主だった。
著者は白川の才能を高く評価し、支援を惜しまなかった。OR学会に「投資と金融のOR」研究部会を立ち上げ、ファイナンス理論の研究を進める著者を、白川は持ち前の才能と献身的努力で支え、自らも最新の理論を駆使して国際的な評価を受ける業績を上げ始めた。
大学教授らしからぬ平易な文章で、理工系大学における金融工学の位置づけや、文部省・大学当局・教授連の駆け引き、東工大と東大の対抗意識など、象牙の塔の内側を描いてみせる。
80年代以降、金融業界では新商品開発のため、従来の経済学では使われなかった工学系の理論や応用数学を利用した金融工学を取り入れる。そうした動きに、伝統的な経済学者は眉をひそめ、数学者も無視を決め込んだという。数学者にとって大事なのは代数、幾何、解析のもつ数学的美しさであり、世間の役に立つ応用数学(数理工学)などには価値を認めなかったというあたり、まさにラピュータの支配者と同一だ。
そんな環境のなか、「バケモノ」と呼んで尊敬する教授しか相手にせず、革新的な金融システム構築に没頭する白川は孤立しがち。周囲の根回しなどもあって、助教授に昇進するが、学内の評価を高めるためもっと論文を発表せよと迫る著者との関係にも亀裂が入り、やがて悲劇的な結末を迎える。
理工系離れがいわれる今、日本が21世紀を生き延びるには強力な技術者を育てねば、というのが著者の主張。そうした才能の芽が、象牙の塔のなかのメンツや親分・子分の人間関係でつぶされている。著者や白川助教授の行動を含め、日本の大学の相も変わらぬムラ社会ぶりに慨嘆せざるを得ない。所詮コップの中の嵐だが、それが日本の将来を危うくさせるとすれば、『ガリバー旅行記』以上に皮肉で、恐ろしい話だ。