史料発掘の執念が切り拓いた「昭和史」

『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』

2015年6月号 連載 [BOOK Review]
by 山本一生(近代史研究家)

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『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』

歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想
(著者:伊藤隆)


中央公論新社(880円+税)

「伊藤君、助手論文のテーマは何にするのか」

「昭和史です」

「冗談だろう。そんな史料のない時代をどうやってやるんだ」

本書の著者は、だれもが認める近代史の泰斗であるが、同時に草分けでもあった。担当教官との会話に見られるように、著者が取りかかったときに「昭和」は歴史学の一部ではなく、政治学の対象だったからである。

もちろん草分けが、必ずしも泰斗となるわけではない。

「ファシズム」にかわって「革新」なる概念を導入して戦前の政治史に新たな視点を提示するなど、数々の学問的業績によってそう呼ばれるようになったのだが、これらの研究を支えたものこそ、日記や書簡など一次史料の発掘であった。

『木戸幸一日記』など手になった史料は多く、しかも「反軍演説」の斎藤隆夫から「右翼」の笹川良一まで多岐にわたっていて、いまやどれも近代史研究に欠かせないものとなっている。じっさい史料の収集編纂への著者の執念には、ただならぬものが感じられる。それこそ歴史家の責任だと考えるからだろう。

発掘にまつわる話が面白い。

三十年近く遺族に賀状を出し続けようやく刊行に至った『上原勇作日記』、直木賞作家の三男の意向で奔放な女性関係が削られずに出版された『有馬頼寧日記』など、単調と思われる史料発掘にも、じつは様々な物語が潜んでいる。さらに手間のかかる翻刻に労を惜しまない研究者、加えて採算が合わないにもかかわらず良い本を出そうとする編集者たち、彼らによって史料は刊行されており、行間からはその熱い思いが溢れてくる。

現在ではオーラルヒストリーと呼ばれる聞き取りについても、著者は草分けであった。

ここでは語り手のなんとも人間臭い話が紹介される。プロレスが好きだという「皇国史観」の学者平泉澄、死を前にしながらもインタビューに臨む政治家藤波孝生。百歳になっても原稿を見直す元軍人の扇一登には心が打たれるし、若き日の日記を自分でコピーする「ナベツネさん」には思わず微笑んでしまう。

その外にも長い研究生活におけるエピソードが満載されている。なかでは『中央公論』での司馬遼太郎との対談が興味深い。

「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」

そう語る『坂の上の雲』の作者に、著者はこう反論する。

「坂を登っていって雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です」

司馬遼太郎は大きな衝撃を受け、中央公論社の嶋中社長の判断で掲載は中止、お蔵入りになったという。この対談原稿を何とか読めないものかと思うのは、評者ばかりではないだろう。

著者プロフィール

山本一生

近代史研究家

   

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