「大連の原発」が予見した「カオスの五輪」

『ベイジン』上・下

2008年9月号 連載 [BOOK Review]
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『ベイジン』

ベイジン』上・下
(真山 仁)


出版社:東洋経済新報社(税込み 各1680円)

チベット騒乱、四川大震災、ウイグル独立派によるテロ……。中国の悲願だった北京五輪は、打ち続く災厄の中で幕を開けることになった。祝祭ムードはどこかに吹き飛び、いまや無難に終わらせることが至上命題となっている。

北京五輪がこうしたカオスの中で開かれることを予見していたかのような小説が話題を呼んでいる。テレビドラマ化もされた『ハゲタカ』シリーズの著者、真山仁の最新作、『ベイジン』だ。

2008年8月8日午後8時。北京五輪の開幕と同時に、大連市郊外で世界最大の原子力発電所「紅陽核電」が稼働を始める。その現場で、中国側責任者である大連市副書記と日本人の技術顧問が衝突。事故の予兆を感じて中止を進言する技術顧問を排除し、副書記は運転開始を強行するが、その判断が破局につながる――。

雑誌連載中から、この作品はエネルギー関係者の間でひそかに注目を集めていた。ひとつは原発に関する描写がきわめて正確であるため。さらに、日本の安全にとって現実の脅威となっている原発がモデルと目されたからだ。

作中の日本人技術顧問のセリフに「実は、大連市郊外の原発は、当初、遼東半島の西側に計画されていたんだ。それを思うと背筋が寒くなる」というものがある。

現実には遼東半島のまさに西側、紅沿河で大規模原発の建設が昨年8月から始まっている。100万キロワット級の原子炉を6基も建設するという世界有数のプロジェクトだが、そのすぐ脇には巨大地震帯が走っている。仮にここで大地震が発生し、それが原発のメルトダウンにつながるようなことがあれば、ほぼ間違いなく日本にも死の灰が飛ぶ。『ベイジン』は、その核心を突いていたのだ。

だが、もし真山が地震による原発事故をストレートに書いたのならば、『ベイジン』はよくある危機シミュレーション小説のひとつで終わっただろう。

真山は物語の舞台である紅陽核電を、あえて遼東半島の東岸に立地させた。そのうえで、フェイルセーフが幾重にも施された現在の原発でも発生しうる事故とは何かを探り当て、説得力あるストーリーを構築してみせたのだ。詳細は作品を読んでもらうしかないが、確かに地震よりはるかに蓋然性の高そうなシナリオだ。まさに背筋が寒くなる。

あるいは国威発揚のため背伸びし、あるいは私欲をむさぼる中国側関係者、それに嘆息しつつ、つきあわざるをえない日本人技術者……。中国ビジネス経験者なら深くうなずくであろうエピソードが続き、その果てに予想もしなかった結末が待ち受けている。作家の想像力が現実の制約を上回るという、小説の醍醐味がここにある。

最近の経済小説の書き手には、自らの職業経験に題材を求める向きが多い中、新聞記者出身の真山は異質な存在だ。今回も徹底した取材に基づいて跳躍感のある物語をつむぎ、中国という難しい素材を見事に料理した。日本人、中国人それぞれが抱える絶望を乗り越え、「希望」を求めるドラマを鮮烈に描きだしている。情報小説や経済小説の枠にとどまらない、まったく新しい作品の誕生だ。

著者プロフィール

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