「大杉栄殺し」と「夜の帝王」の薄笑い

『甘粕正彦 乱心の曠野』

2008年8月号 連載 [BOOK Review]
by 石

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『甘粕正彦 乱心の曠野』

甘粕正彦 乱心の曠野
(佐野眞一)


出版社:新潮社(税込み1995円)

関東大震災直後の混乱のさなか、無政府主義者大杉栄、伊藤野枝と甥の少年を殺害した“主義者殺し”の憲兵大尉。その後、満州事変に加担し、“満州の夜の帝王”の異名をとった満州映画協会(満映)理事長。昭和戦前史に特異な足跡を残した甘粕正彦は、謎の多い、それだけに正体を確かめたくなる存在といえよう。

週刊新潮の短期集中連載を全面改稿した本書は、前半を“主義者殺し”の真実解明に、後半を“満州の夜の帝王”の素顔を描くことに充て、甘粕の実像に迫ったノンフィクションである。著者自ら「甘粕と接した夥しい人びとの証言を丹念に掘り起こし、甘粕の謎をひとつひとつ検証した」と書いているとおり、綿密な取材成果が随所にうかがえる。

大杉らの殺害犯は甘粕ではないのではという疑問は事件直後からあり、戦後発表された論考などでは陸軍謀略説などが提示されている。著者は甘粕の長男をはじめ多くの証言や、甘粕が心境をつづった『獄中に於ける予の感想』、戦後発見された大杉らの死因鑑定書など、入手可能なあらゆる資料をもとに、「大杉事件は警察と軍の共同謀議によって、あらかじめ仕組まれたシナリオ」と推論し、甘粕はスケープゴートにされたと見る。

詳細は本書に譲るが、“主義者殺し”の真相にもまして興味深いのは、懲役10年の実刑判決を受けながら、2年10カ月の刑期で仮出獄、満州事変直前の中国に姿を現して以後の、これまであまり書かれなかった甘粕の活動だろう。

満州事変に際し、甘粕は関東軍特務機関の別動隊長として、ハルビンの日本総領事館を中国人が襲撃したように見せかけて事変拡大をはかり、さらに、のちの満州国皇帝・溥儀を拉致、連行している。こうした謀略工作の末に、満州国が建国されるや警察庁長官にあたる警務司長に就任、満州国の訪欧使節団副団長としてヒトラー、ムッソリーニとも会談している。

満州国建国の舞台裏で暗躍した影の存在から、やがて表舞台に姿を現し、満映理事長として終戦5日後に青酸カリ自殺するまで、甘粕を中心に、満州国という舞台で踊った有名、無名さまざまな人たちの行動が活写される。同時に、甘粕の行動や資金源、人柄が明らかにされていくが、そこに描かれる甘粕は、大杉殺しという汚名による陰惨なイメージとは裏腹な存在である。

熱烈な天皇崇拝主義者であり、溥儀にも信頼され、側近登用を望まれたという甘粕。

潔癖なスタイリストであり、合理主義者として満映スタッフの信頼を得ていた甘粕。

それでいて、自ら言う「数奇にして特異な境遇と地位」のゆえか、ときに見せた周囲を驚かせる酒乱ぶり。

著者の執拗な取材ぶりは、ほとんど甘粕という人物の周辺を埋め尽くしたと思われる。にもかかわらず、読み終えて甘粕という男の真実がもうひとつ捉えがたく、得心がいかない。最後に残った暗い穴の向こうに、寂しく薄笑いを浮かべている印象なのである。

甘粕自身が、それほど謎の深い存在なのか。あるいは戦後60余年、昭和はそんなに遠くなってしまったということだろうか。

著者プロフィール

   

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