2016年9月号
連載 [ひとつの人生]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)
7月26日死去 72歳
ピアニストの手というと華奢で繊細な印象を持ちやすいが、中村紘子さんの手はどちらかといえば逞しかった。
伝説的なサロンだった東京・三田の自宅の広いリビングにはグランドピアノのわきに、石膏でできた実物大のショパンの左手のレプリカが置かれていた。
21歳の時、ワルシャワのショパン国際ピアノコンクールに最年少で入賞して国際舞台へデビューを飾った折の記念品で、それを手に取りながら「私の手より小さい」と重ねて見せたことがある。
その逞しさは国際的なクラシック音楽の戦場でたたかうピアニストを「蛮族」と名付けて、日ごろのたゆまぬ鍛錬と研究を積み重ねながら戦後の日本のピアニストを世界に導いてきた、中村さんの勲章であったろう。
日本人のピアノを縛り続けた、折った指を鍵盤に立てて弾く「ハイフィンガー」と呼ばれる奏法を改めた。その探求のなかからチャイコフスキーやブラームス、ショパンといった作曲家のレパートリーに独特のロマンティックで華やかなピアニズムを構築していった。
演奏活動のかたわら、世界の代表的な国際コンクールの審査員を長く務め、国内でも浜松国際ピアノコンクールの審査委員長として後進の育成に力を注いだ。それは「蛮族」の一人として自らが歩んで来た道を未来につなげたい、という演奏家としての志の表れでもあった。
小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受けた作家の庄司薫さんと結婚したのが1974年である。戦後の高度成長のさなか、この才子佳人の組み合わせを、社会はあたかも同時代の幸福感の象徴のように受け止めた。
容姿端麗のピアニスト、中村紘子さんが、傍らで歴史のアイロニーを深くたたえた歯切れのいい文体で文筆家の才能も開花させたきっかけは、おそらくこの微笑ましい結婚だろう。
「一般教養は耳学問でした」と話したことがある。
桐朋を中退して米国のジュリアード音楽院に留学したのちに国際舞台にデビューした。世界各地の演奏家らと交わるなかで、三田のマンションにはしばしば内外の知性が訪れて談論風発した。丸山眞男、吉田秀和、林達夫、山本七平……。財界人や官僚も含めたサロンは夫の庄司さんと合作した「学校」であった。
大宅賞を受けた『チャイコフスキー・コンクール』などを通して、音楽と国際政治や経済秩序の変転との浅からぬかかわりを掘り起こしたのは、大きな手柄である。
中村さんは武満徹や三善晃、そして早世した矢代秋雄など、日本の作曲家の作品も視野に収めてその後の演奏活動を広げた。ピアニストが向き合った〈世界〉とのたたかいの証にほかならない。
「ピアノの恋人」が癌で突然逝った。同時代の喪失感は、深い。