『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』
2009年5月号
連載 [BOOK Review]
by 今井昭彦(宗教史家)
「ムラやマチの靖国」といわれるものに「忠魂碑」や「忠霊塔」がある。忠魂碑は日露戦役後にその建立が一般化し、忠霊塔は昭和期に入ってから内地での建設が広がっていく。忠魂碑は戦死者の魂のみを祀ったものであるが(遺骨なし)、忠霊塔は戦死者の墓とされ、納骨が前提とされていた。したがって現今の戦死者慰霊施設としては、遺骨を収容しない靖国神社と、その実質的な末社たる各地の護国神社は、「巨大な忠魂碑」と考えられるが、一方の忠霊塔は、むしろ千鳥ケ淵戦没者墓苑に繋がる系譜と思われる。
さて、私のようにいわゆる「靖国問題」に関心を抱いているものにとって、本書は極めて魅力的な一冊である。戦後の靖国神社への戦死者の合祀、とりわけA級戦犯合祀や、千鳥ケ淵戦没者墓苑の創設が、どのような意図の下で、一体誰によって実施されたのか。これらは今まで歴史の闇のなかに封印されていたが、本書ではそれを見事に炙りだしている。
タイトルにもあるように本書の主人公は、厚生省「援護局のドン」と呼ばれた美山要蔵(明治34年生まれ、陸士35期)なる人物である。敗戦時は陸軍大佐として陸軍省高級副官(現在の官房長)の地位にあり、靖国神社を統括する立場にあった。戦前、靖国神社は内務省ではなく陸・海軍両省の管理下にあり、その意味では「軍事施設」でもあったのである。
著者は、毎日新聞社編集委員の要職にある40代の気鋭のジャーナリストであるが、美山の出生から丹念に説き明かし、彼をとりまくエピソードの記述は実に盛り沢山で、読者を一向に飽きさせることはない。なかでも敗戦直後、美山は密かに蟄居の身にあった東條英機に面会し、東條から靖国神社の存続を託されていたという事実は、大変興味深い。天皇参拝を続けさせること、戦死者だけでなく戦災者や終戦時の自決者も合祀すべきであることを、その時東條は指示していたという。この「東條の遺言」が、一つには戦後の美山の行動を大きく規定する要因になった。
A級戦犯合祀に関しては、当時の靖国神社第6代宮司であった松平永芳の存在が決定的であったようだが、美山は一方で、海外の遺骨収集団長等を務め、異国で無惨に朽ち果てている日本兵の遺骨の惨状を目のあたりにしている。そしてその状況を直接、昭和天皇に単独上奏する機会を得ている。こうした体験は、旧軍人として彼にある強い使命感をもたらし、靖国神社への戦死者合祀の推進や、後の千鳥ケ淵戦没者墓苑の創設に反映されることになった。
既述の忠霊塔建設の主導者は陸軍であったが、それは陸軍が遺骨に拘っていたからであり、仏教界がこれに同調し、つまりは戦死者をホトケとして祀ることになった。他方で、国家は戦死者を靖国神社にカミとして祀り、現実には相矛盾するこの二つの祭祀体系が構築された。美山の遺族が「靖国の美山」よりも「千鳥ヶ淵の美山」であると認識し、また本人も然りであったという点は、特筆すべきであろう。
政治史は勿論、宗教史の観点からも、本書は示唆に富む多くの導きの糸を提供してくれるものである。