特別寄稿 愛国に死す「外交戦士」岡本行夫という生き方

外交までもウェブ会議、リモート会談が持て囃されるが、岡本ほど「現場重視」に徹した外交官はいない。いま日本外交は、その「範」を失った

2020年8月号 POLITICS [「範」を失った日本外交]
by 鈴木美勝(ジャーナリスト 慶應義塾大学SFC研究所上席所員)

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「外交戦士」逝く(岡本行夫氏)

Photo:Jiji Press

国を熱く思い「現場主義」を貫いた外交戦士、岡本行夫(岡本アソシエイツ代表)が新型コロナウイルスで急逝して3カ月になる。コロナ禍時代の現在、デジタル社会への移行が否応なく進み、外交までも、主要な装置としてウェブ会議やリモート会談が持て囃されている。こうした様相は、今後、本来あるべき外交の力が軽視されていく分岐点となるのではないか。官民で活躍した岡本の軌跡を振り返る時、その生きざまは、政財官のお歴々が安易に口にする「ニューノーマル(新常態)」の在り方に、警鐘を鳴らしているように思えてならない。

岡本は一橋大学を卒業後、1968年に外務省に入り、花形ポストの安全保障政策課長、北米第一課長を歴任したが、91年に退官、民間に身を置きつつ、日本外交に深く関わり続けた。96年、米軍普天間飛行場の返還で米政府と合意した橋本内閣で、請われて首相補佐官(沖縄担当)となり、政府と地元のパイプ役に尽力。03年、イラク戦争が勃発すると、小泉内閣下で改めて首相補佐官への就任を要請され、イラク復興支援策の取りまとめに貢献した。そんな岡本の急死に、言いようのない衝撃を受けた。

高倉健から送られた「ペンダント」

4月10日、岡本のオフィスからメールが届いた。TBS番組「サンデーモーニング」への出演を知らせるメールだった。が、その翌日、またメールが入った。「昨晩風邪により、少々の熱が出ましたので、大事をとって出演はキャンセルすることとしました」。「風邪?」そして「熱」、嫌な予感がした。後になって知ったことだが、岡本は13日に緊急入院し、新型コロナウイルスによる肺炎と判明したが急速に重症化し、24日、帰らぬ人となった。わずか14日間の痛恨事だった。岡本の死は、日米・政財界の知人が驚愕したばかりではない。岡本を知る名もなき生活者にも衝撃が走った。

2011年3月のことだ。東日本が大震災に見舞われた直後、岡本は単騎、被災地に乗り込んだ。いま、被災者が生活を取り戻すには何が必要か――との思いを起爆剤に岡本が構想し、官民のネットワークを駆使して立ち上げたのが、「希望の」だ。政府の支援による本格復旧までをつなぐ「橋」を応急的に架けられないか。こんな発想で始まった復興プロジェクトだった。ヨットマンとして海をこよなく愛する岡本は考えた。一部の漁港や魚市場であろうと、いち早く機能回復を図り、再開に漕ぎつけられれば、被災した人々が前へと進む勇気を持つことができる。その「お手伝いをする」。5月7日深夜、岡本の訃報が流れると、黙々と支援する岡本の姿を記憶する女川、石巻などの人々から、死を悼む声が寄せられた。

外交評論家・宮家邦彦は、岡本を「発想力・行動力・説得力の三拍子そろった不世出の外交官」と評した。まさに、東日本大震災の被災地で「希望の烽火」を立ち上げた一事を取ってみただけでも、宮家の指摘の正しさが実証されている。

岡本には、自身への戒めとお守り代わりに身につけていた「宝物」があった。それには「四耐四不」の辞が刻まれていた。「冷に耐え苦に耐え煩に耐え閑に耐え、激せず噪がず競わず随わず、以て大事をなすべし」。それは、岡本がイラク復興事業に邁進していた時、俳優・高倉健から送られてきた、鎖のついたペンダントだった。

「心が弱音を吐く時に身につけていて、自分を励ましてきたものです」。3年がかりの雪中ロケの末に完成した映画『八甲田山』の撮影時、高倉自身が戒めにしていた座右の銘だ。手紙の文面からは、死と隣り合わせで職務を遂行する岡本を気遣う人間としての優しさが滲み出ていた。

話は03年に遡る。イラク時間11月29日、盟友・奥克彦とその相棒・井ノ上正盛が「戦死」したとの報を受けた岡本は、急ぎ成田空港へと車を走らせた。元々、中東出張を予定していた岡本だが、希望したバグダッド(イラク)入りは首相官邸の断で許されず、イランに向かったのだ。空港で待ち構えていた報道陣に囲まれ、マイクを突きつけられた。やや感昂って「かけがえのないパートナーを失ったが、奥の歩いてきた同じ道を歩いていきます」。不覚にも半泣きになった。テレビのニュースに岡本の姿が映し出された。

羽田空港でそれを偶然見た男がいた。高倉健だった。

数日後、岡本に一通の手紙が届いた。

「急啓 (略)……どこにも向けようのない深い悲しみや怒り、苦痛に耐えていらっしゃる岡本さん、拝見していて胸が痛みました。亡くなられたお二人のご冥福をお祈りし、遠くからですが、手を合わせております。戦いに敗れて50数年、この国が、何かを決断しなければならないことを強く感じました。岡本さん、どうぞ一日も早く立ち直られて下さい」

岡本と高倉は、まだ一度も会ったことはなかった。それまで二人を結ぶ因縁らしきものは、岡本が知り合いを通じて、雑誌『外交フォーラム』での対談を依頼した一件だった。が、その時、高倉主演の『単騎、千里を走る』(05)の中国ロケが佳境に入ろうとしていた頃だった。面識もない高倉本人が丁重な電話をかけてきた。「体があかないんです。いつか機会があれば是非」。結局、岡本が発案した企画は実現しなかった。が、生の声でつながった二人は、これを機に以心伝心の間柄となった。

苦境に立たされた時の一通の手紙。情感溢れる温かい高倉の人間性に触れ、岡本は「絶望の中で勇気を得た」。奥克彦というかけがえのない盟友を失った岡本だが、その時、高倉健という心の支えを得る幸運に恵まれた。以後も高倉は励ましの手紙をくれ、岡本が政府部内で孤立した時、「終始、応援してくれた」――。

交渉のイロハを「牛場外交」に学ぶ

時代こそが傑出した仕事師を生む。福田内閣で対外経済担当相に就いた牛場信彦(元外務事務次官)は、確かにその一人だろう。外交官・岡本の人生にとって、牛場との出会いは、決定的に重要だった。

牛場は、戦前の日独伊三国同盟を支持する枢軸派の外交官だった。が、戦後になると、親米派に変節した、と揶揄された。しかし、岡本には、過去の牛場の評価や今の政治的立ち位置は関係なかった。

岡本が牛場との関係を深めたのは、国際経済課事務官として昼夜分かたず働いた時だ。牛場のカバン持ちになった岡本は、至近距離で仕え、外交官として不可欠な基礎を学び取った。1978年、牛場対外経済担当相は、牛肉・オレンジの輸入枠拡大問題に取り組み、ストラウス通商交渉特別代表との激論の末に、収束に向かわせた。

対日強硬派・ストラウスとの知的外交バトルを目の当たりにした岡本は、そこに、国家を背負って「自分の信念を頑固に主張する『外交戦士』」の姿を見た。交渉事のイロハの重要性を、牛場外交の実践から学んだのだ。

外交が「理」で動く時もあれば、「情」で挫折することもある。

外務省で1年後輩の田中均(日本総研国際戦略研究所理事長)も、岡本の死を心から惜しんだ一人だ。田中にとって「自分の生き方を考える際に常に意識してきた」人だった。岡本同様、政治を動かし、難題を処理してきた実力派で、普天間基地返還合意は、北米局審議官時代に世間をあっと言わせた仕事の一つだが、後に岡本から批判を受けた。

55回も沖縄に出向き、地元民と泡盛を酌み交わすなど、相互理解に努めた岡本は厳しく田中に迫った。「なぜ沖縄の声を十分聞かなかったのか、あらかじめ沖縄との移設先合意なくして基地移設は実現できない」――。田中にも言い分はあった。だが、泥沼に嵌った現実を前に、田中は言葉にした。「岡本さんが正しかったことを示している」。自身が手掛けた北朝鮮問題などを巡って、岡本がイラク復興支援で経験したのと同じような孤立感を味わった田中ならではの率直な告白だ。その潔さからは、岡本と同じプロフェッショナルの臭いがする。

未完に終わった執筆中の「自叙伝」

外交官には幾つかのタイプがあるが、岡本ほど「現場重視」に徹した外交官はいない。かつて、課長の外交力が日本外交に推進力を与えていた時代に岡本は活躍した。しかし、国際法や理論を最重視する呪縛に囚われ、あるいはデスクワークをより重んじる外務官僚からは理解されない面があった。岡本の「徹底した現場主義」には、それ相応のジレンマがあったのだ。

91年1月、「官」の枠に収まり切れない岡本は、外務省を離れ、民間に身を置く外交に舵を切った。前年秋、外交官として最後の訪米出張の際にワシントンで筆者が会った岡本からは、内に秘める情熱と湧き水のような清冽さが感じられた。

以来30年。何かと接点を持ち続けてくれた「岡本さん」を偲ぶ時、感謝と併せて、その「チャーミングさ」を改めて思わないわけにはいかない。岡本の「チャーミングさ」とは、人間としての包容力、誠実さ、熱意に結びついており、その外交スキルの土台を中枢で支えていたものだ。

執筆中だった「自叙伝」は、若い世代へのメッセージとなる第七章を書き残して未完に終わった。己を消す「四耐四不訣」を胸に刻んだ岡本は、若き外交官たちに何を伝えようとしたのであろうか。我々は、「岡本行夫」という生き方から、それを汲み取って行かねばならない。生身の人間との接点を求め続け、事の本質を見抜く基点は人との交流を通して「感性を磨く」以外にないとの信念は、オンライン化が進んでも外交官が疎かにしてはならないものだが、いま日本外交はその「範」を失った。

岡本が不帰の人となったのは4月。それを見据えると、彼の「死」は単に禍(わざわい)に起因するものではないように見える。人々にとっての多くの身近な死と同様、実は、リーダーのコロナ対応の拙劣さに根本要因があったように思えてならない。

(敬称略)

著者プロフィール

鈴木美勝

ジャーナリスト 慶應義塾大学SFC研究所上席所員

   

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