〈黒〉に幽閉された詩人

フランスで〈美の魔術師〉となった長谷川潔の望郷

2020年8月号 LIFE [美の来歴]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)

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長谷川潔「時 静物画」(マニエール・ノワール、1969年、京都国立近代美術館蔵)

舗道の敷石があちこちではがされ、学生と労働者のデモで燃えたカルチェラタンは、もう熱い季節が終わろうとしていた。

東京芸術大学を卒業して1969年春からフランス国立美術工芸大学へ留学していた女子学生が、パリ14区に住む伝説の日本人版画家にあてて、面会を求める手紙を書いた。

長谷川潔。1918年に渡仏し、マニエール・ノワール(黒の技法)と呼ばれる銅版画でパリの画壇の高い評価を受けた。

小鳥や静物、風景などを題材にして黒の濃淡が織りなす作品の深い知的な抒情を、仏画壇は「神秘的」と喝采した。レジオン・ドヌール勲章を受けたが、第二次大戦で敵国人としてパリの中央監獄やドランシー収容所に収監された。〈ノワール〉に画業を捧げた版画家は戦後もフランスに留まり、一度も祖国へ帰ることなく、パリで生涯を閉じる。

〈初めて会う老人は、外の光にちょっとまぶし気に眉を顰めて私を確認すると頷いた。そして大きくドアを開けてくれた。初夏の陽射しの中を歩いてきた肌に、建物の中は暗く冷んやりとして快かった〉

「誰とも会わない孤高の人」と伝えられた画家をようやく訪ねあてた場面を、女子学生は後年こう記したあと、アトリエの情景を回想している。(堀尾真紀子『画家たちの原風景』)

〈射し込む光に浮かび上がる小鳥の剥製、枯れたさまざまな種子草類、貝殻、砂時計、六角独楽、大小のガラス玉、銀色のリング。それはそのまま、あの銅版画の世界そのものであった〉

長谷川が手掛けたマニエール・ノワールと呼ばれる銅版画の花鳥は、日本の伝統美術が描くところの情緒纏綿とした花鳥風月とは対極にあった。

〈自然の写実は(木や草など)単なる写生でなく地球上の存在物の外観の重要性、外観と内容との緊密な関係上、眼に見える世界から眼に見えぬ世界への投入であり、眼に見える世界より見えぬ世界がさらに偉大なるものであるかを感じるためでもあります〉

〈美〉を生み出す宇宙の法則と真理を探究することを、自らの創造の哲学とした。その言葉は、情緒的な日本の造形感覚を否定する画家の断固とした絵画観を伝えて屹立している。

長谷川は1891(明治24)年、横浜の裕福な銀行家の家に生まれた。和漢洋の学芸に親しむ少年期を過ごし、麻布中学で外交官を志したが、父母を相次いで失って美術へ転じた。画塾ではフランス留学から戻った黒田清輝や藤島武二に学んだが、基礎的な技法(タチエ)の指導ばかりの教育に失望する。

ウィリアム・ブレイク、オディロン・ルドンなどの神秘的絵画とドイツ表現主義に惹かれ、山田耕筰や石井漠と親しんで音楽や舞踏の世界にも浸った。

北原白秋、日夏耿之介、川端龍子、芥川龍之介、佐藤春夫……。疾風怒涛のこの遍歴時代に長谷川が交友を結んだ人々をあげれば、さながらそれは近代日本文化の華麗な絵巻になろう。

銅版画への目覚めも、そこで出会ったバーナード・リーチの影響が大きい。腐蝕させた銅版が自在な曲線や色彩の濃淡を作って独特の質感(マチエール)を生む。それが「自然のストルクチュール(構造)を究める」という彼の絵画観と密かに共鳴したのだ。

その後フランスへ渡り、メゾチントという18世紀に隆盛した銅版画の技法に出会った。小さな鑿(のみ)で刻んだ下地が描き出す繊細な「黒」の濃淡(グラデーション)が、長谷川の詩人的な感性に決定的な痕跡をもたらしたのであろう。

幼い頃から父親らが親しむ漢籍や書画を通して唐墨の落ち着いた深い黒に馴染んでいた長谷川は、「墨色七彩ヲ兼ヌ」という言葉を引いて、七つの色に匹敵するその多彩なニュアンスに触れている。自然の神秘のなかに花や小鳥を置くことで、〈マニエール・ノワール〉にこの唐墨の再現を見出したのである。

1919(大正8)年、27歳でフランスの地を踏んだ画家は、その銅版画によってサロン・ドートンヌをはじめ、パリで開いた「近代日本版画の起源展」への出品、公立美術館の作品買い上げなど、華々しい評価を広げた。「それは生きた幾何学なのである」と、同時代のフランスの詩人、トリスタン・クリングソルは賛辞を捧げている。

しかし、第二次大戦が勃発すると敵国人として立場を失い、フランス各地を転々とした。藤田嗣治をはじめ多くの日本人画家が祖国へ引き上げるなかで、長谷川はフランス人の妻、ミシュリーヌとともにこの地にとどまり、80年に没するまでついに祖国へ帰ることはなかった。

69年に留学生だった堀尾真紀子がカルチェラタンに近いアトリエに長谷川を訪ねて、何度目かの面談の折、「どうして一度も日本にお帰りにならないのですか」と問いかけている。

長谷川はそれにこう答えた。

「どんなに故国の土を踏みたかったか。しかしもう遅すぎます。これまでに何度かそのチャンスはありました。ミシュリーヌは身体が弱いし、それにベルナールは。この者たちを置いてゆくわけにはいかないのですよ」

病弱の妻と障害を持つ連れ子の存在を長谷川はあげた。しかし、理由はそれだけだったのか。

57年11月3日に長谷川は日本に住む親友の詩人、堀口大学に手紙を書いた。そのなかで画家は「今迄の滞仏中の仕事はわずかしか我国で認められず」と戦後の祖国の乏しい評価を嘆き、「日本へ帰りたくとも、そのような大金は出来そうもありません」と記している。

また版画家の駒井哲郎にあてた70年3月9日の手紙では、日本の美術館は一度たりとも直接購入しようとしない現状に強い不満を打ち明けている。

67年に勲三等瑞宝章を受章、80年の秋には京都国立近代美術館で日本初の大規模な回顧展が開かれたが、それにも帰国しないまま、長谷川は同じ年の暮れにパリで89歳の生涯を閉じた。

〈望郷〉の夢はついに果たし得なかった。〈ノワール〉に神を探った芸術家の栄光と孤独は、二つの風土に引き裂かれる運命へと彼を誘(いざな)ったのだろうか。

著者プロフィール

柴崎信三

ジャーナリスト

1946年生まれ。日本経済新聞社で文化部長、論説委員などを務めて退社後、獨協大、白百合女子大などで非常勤講師。著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)などがある。

   

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