青年会議所が「被災地支援」に東奔西走

2011年5月号 DISASTER [JCは今]
by 取材 ジャーナリスト 児玉博

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被災地の釜石で活動する地元のメンバーたち

地域に根を張るネットワーク力を存分に発揮。メンバーの安否を思いながら共助と連帯の精神を貫く。

首相、菅直人によって災害ボランティア担当首相補佐官に任命された辻元清美。阪神・淡路大震災でのボランティアの実績を買われての抜擢だったようだ。それ以来、辻元が頻繁に連絡を取り合う組織が、首相官邸からもほど近い場所に本部を持つ「日本青年会議所」(日本JC)である。

脆弱な地方組織しか持たない政府民主党は現地から入り乱れて届く情報の整理に混乱していた。

一方、JCは全国におよそ4万、東北地方には3415名のメンバーが存在する。各地に根を張り、日頃から地域活動に関わってきたネットワーク力が発揮され、被災地の情報も全国の支援活動の基礎も確かだ。

被災地のメンバーたちは、自分の会社を失い、また最愛の家族を失いながらも、救援活動の最前線に立っている。全員40歳以下というJCの若さは、高齢者が多い被災地で、貴重な情報発信の源となった。地元の情報をツイッターやフェイスブック、東北地区のJCが以前から災害対策で用意していた会員用掲示板「ターズネット」などに書き込む。無線LANからネット回線でつなぐ電話も使う。インターネットをフル活用して支援を求め続けた。

民主党が頼りにするほどの正確、かつ速い情報網を持つJCだが、被災当初は他の団体同様に混乱に見舞われていた。3月11日の地震当日、会頭・福井正興は新幹線で上京途中の名古屋で足止めされ、日本JCの幹部役員で東京のJC会館にいたのは専務理事の吉村武大一人だった。

全国から安否確認の問い合わせが来るのに、被災地は電話がつながらない。そんな中で吉村は即座に事務職員らと手分けし、会頭、副会頭(4人)らと連絡をとる一方で、早くも対策本部立ち上げの準備に入る。

翌日には福井と橋本淳(富山JC)、安藤公一(東京JC)、杉本高男(名古屋JC)、井川直樹(松山JC)ら4人の副会頭全員が本部に顔を揃え、正午、正式に福井を本部長とした震災対策本部を立ち上げた。

直後から、地域に根を張り、地域を“点”としてではなく、“面”として活動してきたJCのネットワークの本領が発揮されていく。

まず新潟でガソリンスタンドを経営しているJCのOBの協力を得て、そのスタンドをガソリン、軽油の供給基地とする一方で、埼玉県羽生市内に物資集積の倉庫を確保する。80トンの物資が集まり、埼玉から被災地に第1便が出発したのは震災から4日目の3月15日。2日でコメと水を被災各地に運び入れた。この時点で東北地区メンバー3415名のうち1509名の安否を確認。

並行して、募金活動と義捐金口座開設。全国の各JCには「必要物資リスト」が伝えられた。特筆すべきはすでにリストに事細かに20品目が記されていたことだ。内容は、JCが過去の阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、奄美大島豪雨災害、宮崎県口蹄疫災害などで学んだ経験から決められていた。被災直後にはコメと水でも、数日後には紙オムツや粉ミルクが必要になる。2週間たてばスコップと長靴も。時間の経過とともに現地で必要なものが変わっていくことを踏まえたリストだった。

対策本部では、過去の災害時に作成された資料、小冊子などから必要な援助、支援を学ぶ傍ら、災害支援を体験してきたOBからの助言も仰いだという。たとえば、リストに「袋入りラーメン」とある。なぜか。対策本部のメンバーによれば、「大鍋に入れてしまえば、小分けにもできスープにもできる。カップラーメンよりゴミも出ず、多くの人に食べてもらえる」との判断だった。

埼玉の倉庫に集まった物資

ツイッターなどを通じて、各被災地からどんどん情報が入ってきていた。そうした生の声と、テレビや新聞などのマスメディアの情報とでは大きな格差があることを、対策本部のメンバーは肌身で知ったという。

「現場の情況が1、2時間でごろごろと変化していた。マスコミ報道とは数日のラグがあった」

ある避難所に物資を運んでいくと、物資が到着する数時間前に被災者は別の避難所に移動してしまい、誰もいない公民館に物資が山と積まれていたりもした。

また、震災から4日目に岩手県から入った物資の要請は「大至急マスクを集めてくれ」。当時、マスコミは必要物資は水、コメ、と頻繁に報道していたが、マスクをという報道はなかった。しかし現地では、海水と共に陸に打ち上げられたヘドロが乾き、粉塵となっていたのだ。JCは、この要請で、早い段階でマスクを送る手配ができた。

物流は要請があってから届くまで2日かかる。対策本部では、ある時点から公的機関などからの情報でなく、地元JCメンバーのネットワークの中で情報を集めることに集中した。そのほうがタイムラグが少なく、結果的には物資のマッチングがスムーズに行えたからだ。支援が情報の変化に対応しえた最大の要因は、自身も被災しながら支援活動に奔走する東北のJCメンバーの献身があればこそだった。

行政がやることはやらない。対策本部の当初からの方針である。たとえば、毛布は自治体が用意するので集めない。そのかわり行政に人手が圧倒的に足りないのを見越して物資を仕分け、衣服はサイズ別、男女別、上下などと分けて箱詰めする。また現地ボランティアへの問い合わせがひっきりなしに相次ぐ中、当初、対策本部ではあえて「待て」の指示を出し続けた。被災直後は現地の負担になる、と時期を見て継続的な活動をしていくことに重きを置いた。

被災地のニーズは刻々と変わってきている。被災直後のような物的支援から次第に比重は移り、今後は人的支援が中心だ。JCでは各地に立ち上がったボランティアセンターなどと連携し、全国のメンバーから参加者を集い、少なくとも向こう3カ月間は継続的に絶やすことなく人を送り出すことにしている。

人的支援が一段落すれば子供らのPTSD(心的外傷後ストレス障害)対策。被災者の働き口。壊滅した産業の復興支援……。取り組まねばならぬ課題は山のように待っている。

「東北には77の青年会議所があります。震災からの復旧はもちろんですが、我々は生涯かけて自分のふるさとを活性化することをずっと考えてきた、地域に密着した団体。被災した地元のメンバーが諦める状況にならないよう、そこから市民の方々とともに新たな運動や事業をやっていくことこそが他にはできない役割です。やることは緒に就いたばかり」(福井会頭)

東北のメンバーには津波で命を奪われた者もいる。戦後の復興期に生まれたJCは、共助と連帯の精神により、今、その使命感を新たにしているようにみえる。(敬称略)

   

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