美の来歴⑯ 諜報戦を潜り抜けた絵

外交官須磨弥吉郎とフォルトゥーニの〈日本〉

2020年4月号 LIFE [美の来歴]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)

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マリアノ・フォルトゥーニ・イ・マルサル『日本式広間にいる画家の子供たち』油彩、カンバス(1874年、プラド美術館蔵)

週1回だけ大学の講師だまりで一緒になるスペイン語のT子先生から、或る日「ちょっと面白い絵がありました」と展覧会のお土産の絵葉書を頂いた。

19世紀半ばのスペインの画家、マリアノ・フォルトゥーニ・イ・マルサルの『日本式広間にいる画家の子供たち』という絵で、プラド美術館が所蔵する横長のカンバスの作品である。そのタイトルと琳派風の東洋趣味に心のどこかがふわりと動いた。

寝台風の寝椅子の上に、二人の西洋人の子供が遊んでいる。女の子は深紅の大きなクッションを背にして寝ころび、手にした扇を開いて仰ぐポーズをとっている。すでに微かな媚態の気配がこの少女にはある。

左手にはつややかな緑色をたたえた亜熱帯風の広葉樹がせり出して、画面の不思議な静寂をうち破る。晩年を過ごしたというグラナダの屋敷の一室だろうか。乾いた熱気が包み込む広間から、遠い〈東洋〉の彼方の〈日本〉を夢想する画家の心象が浮かび上がるようだ。

フォルトゥーニはカタルーニャ生まれの画家で、1858年から2年間ローマに学んだ後、スペイン・モロッコ戦争に従軍、戦争画を描いた。モロッコの街の異教的で官能的な混沌が、〈東洋〉へまなざしを向けるきっかけだったらしい。

従軍から帰国して今度はパリで新古典主義の画家のジャン・レオン・ジェロームに学んだ。折からジャポニスムが流行を兆しており、さらに東の〈日本〉に対する好奇心はこの時代に培われたのかもしれない。祖国で結婚したのち、画家がマラリアで急逝する36歳の時にこの作品は描かれている。これは家族の思い出を造形したカンバセーション・ピース(団欒図)の一つとみることもできよう。

フォルトゥーニには同じ「日本」をモチーフにした『東洋の幻想』という作品がある。こちらは日傘をさした着物姿の女性たちが水辺に遊ぶ情景を浪漫的に描いて、オリエンタリズムの濃厚な香りを漂わせている。フランスのロココ時代の「雅宴図(フェートギャラント)」の系譜の作品であろう。

「いま、長崎県美術館にあるこのフォルトゥーニの作品は戦前、マドリードに駐在したある日本人外交官の蒐集品でした。数奇な来歴があるようですね」

T子先生のそんな言葉に導かれて、話題は独裁者フランコの時代にスペイン公使を務めた須磨弥吉郎(すまやきちろう)という外交官の美術コレクションに及んだ。

米、英、独、中国など各国に駐在した須磨は1941年から終戦後の46年にかけて、公使としてマドリードに在任中に膨大な数の欧州絵画を集め、「須磨コレクション」と呼ばれた。スペイン絵画を中心に2千点近くにのぼり、これらは戦後スペイン政府に没収されたが、須磨が戦犯容疑から解かれると一部が日本へ返還された。復活した須磨は政界に打って出て、衆議院議員を二期務めるなどしたのち、70年に死去している。

戻された500点余りは須磨の遺志により、カトリックの布教などでスペインとゆかりの深い長崎県に寄贈され、現在長崎県美術館が所蔵する。その中の一点が、フォルトゥーニの『東洋の幻想』というわけである。

当時は大戦下で、中立を掲げるフランコ独裁のスペインは枢軸側と連合国側の間の水面下の情報戦の舞台だった。須磨はその日本側の影の主役であった。

実はT子先生は父上が外交官で、南米や北欧で育った帰国子女である。父上の遺品に護身用の小型拳銃が見つかったとか、ヘミングウェイ直筆サイン入りの『老人と海』があるとか、面白い話を聞いたことがある。外交官須磨弥吉郎と画家フォルトゥーニを繋ぐものは何だったのか。

須磨はこう回想している。

「戦乱のヨーロッパで、世界の事情がよく判るのは中立国である。それに最も適しているのがスペインだった。(略)マドリッドには、どこの国からも、大ものの外交官が蝟集していた。いわば大戦中のヨーロッパの観測台である。阿蘇山の大観台のような所だ。こう考えて僕は志願した。情報関係にも働いてみようと思った」(『外交秘録』)

須磨から依頼を受けた外相スニェルによって「東(とう)機関」と呼ばれる諜報組織が発足したのは42年1月である。アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコというユダヤ系スペイン人のもとに20人ほどの諜報員が米国各地に配置され、手に入れた米国の軍事情報をメキシコ湾に停泊したスペイン船に無電で送った。それはマドリードの公使館の須磨を経由して東京の外務大臣、東郷茂徳へ届けられた。

須磨が回想録であげているのが、41年8月9日に行われた対日政策を巡る英国首相チャーチルと米大統領ルーズベルトのいわゆる大西洋会談である。米国の早期参戦を促すチャーチルに対し、ルーズベルトが抑制し、日本の開戦を的確に見通している。ガダルカナル戦の米軍の上陸日時や米国の原爆実験の成功なども〈東機関〉の情報として東京に送られたが、軍部が作戦に生かすことはなかった。

2千点近い蒐集のなかで須磨がとりわけ愛着したのがフォルトゥーニで、作品は200点以上に上った。『東洋の幻想』のオリエンタリズムの芳香は、戦時下の諜報戦に疲れた外交官の心を癒したに違いない。しかし『日本式広間にいる画家の子供たち』は須磨の手に落ちなかった。家族が持ち続けたからである。それは遠い日の貴重な家族の記憶であったのか――。

長崎県美術館の須磨コレクションにダニエル・バスケス・ディアスが描いた『須磨弥吉郎の肖像』という作品がある。公使着任1年目の41年制作で、着物と袴で盛装して日本刀と鞘を手にした須磨の堂々とした益荒雄(ますらお)ぶりが画面に浮かび上がる。

「足袋草履の須磨の足許に置かれた水色の表紙の本が全てを語っています。〈Donde està el Japón〉、つまり〈日本は何処に〉のタイトルとYakichiro Sumaという著者の名前があります。これは日本人外交官須磨弥吉郎が大戦下の情報の十字路のスペインから発した、祖国への呼びかけであり、孤立への警鐘だったのでしょうか」

T子先生はそう言って、深くため息をついた。

著者プロフィール

柴崎信三

ジャーナリスト

1946年生まれ。日本経済新聞社で文化部長、論説委員などを務めて退社後、獨協大、白百合女子大などで非常勤講師。著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)などがある。

   

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