朝日新聞の歴代社長が滅ぼした「最後の社主」

40年の長きにわたって社主を務めた村山美知子氏の葬儀に招かれた朝日新聞関係者は10人にも満たなかった。

2020年4月号 BUSINESS

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世界新聞大会参加者の夫人たちを自邸に招待した村山社主(1998年5月)

それは、朝日新聞と村山社主家の断絶を象徴する場面だった。

40年の長きにわたって朝日新聞社主を務めた村山美知子氏が3月3日に逝去し、翌4日に神戸市内の自宅で神道式の通夜祭、5日に密葬祭が行われたが、そこに招かれた朝日新聞関係者は、10人にも満たなかった。

葬儀に参列したのは、渡辺雅隆社長、秋山耿太郎(こうたろう)元社長、藤井龍也常務・大阪本社代表、広瀬道貞テレビ朝日元社長らごくわずかな幹部のみだった。「美知子さんの甥・恭平さんをはじめ、遺族の意向でしょう。美知子社主は99歳の高齢で、すでに5年近く大阪市内の総合病院の特別病棟に入院していましたが、朝日の幹部は病院を見舞うこともほとんどなかったそうです」(朝日新聞元幹部)

手を替え品を替え「懐柔」

3月末に刊行される樋田毅著『最後の社主』(講談社)

朝日新聞は3月4日の一面と社会面5段を使い、美知子社主の生前の功績を伝えたが、実際には創業家との関係は冷え切っていた。

朝日新聞の経営陣にとって、創業家の一つである村山家は「目の上のたんこぶ」、それどころか「悪性腫瘍」のような存在だったと言っても過言ではない。

亡くなった美知子社主は朝日新聞を創業した村山の孫で、08年時点で36.4%もの朝日新聞株を保有していた。美知子社主の妹の富美子さんと、その息子・恭平氏はあわせて8.5%を保有しており、もう一つの創業家の上野家の持ち株を合わせれば保有株は64%を超え、社長の首をすげ替えることはおろか、会社を他社に売却したり、海外に流出させることも可能な力を有していた。実際、07年には、甥の恭平氏が週刊文春の取材に答えてその可能性をほのめかしたこともあった。

別の朝日元幹部が言う。

「歴代社長は、いずれも『村山家対策』に頭を悩ませてきました。社内に極秘に社主問題の対策チームをつくり、弁護士も交えて対応策を練っていたようです。その一方で、『秘書役』と称する社員を村山美知子さんの身辺に派遣し、その動向を監視していたんです」

村山家と朝日経営陣には、長きにわたる因縁がある。1964年に美知子社主の父で朝日社長を務めていた村山長挙(ながたか)氏が当時の広岡知男取締役らによって電撃的に社長を解任され、翌年には取締役も解任されて「社主」に祭り上げられた。

この「村山騒動」によって、村山家と経営陣には深い遺恨が刻まれる。クーデターを成功させた広岡は後に自身が社長に就任、10年にわたって君臨した。

77年、長挙社主が失意のうちに死去し、美知子氏が社主の座を受け継ぐと、歴代の社長は手を替え品を替え、持ち株を手放すよう説得を繰り返したが、美知子社主は頑として首を縦に振らなかった。

渡辺誠毅(77年~)、一柳東一郎(84年~)、中江利忠(89年~)、松下宗之(96年~)と社長の座が受け継がれても、冷え切った関係は変わらなかった。箱島信一(99年~)の時代になると、断絶と言っていいほど関係が悪化していたという。

その一方で、地道な「懐柔作戦」も続けられた。

神戸・御影の豪壮な邸宅に一人で暮らす美知子社主に、朝日から派遣された秘書役が社主の好物の高級食パンや朝日新聞発行の雑誌を届けるなどして、ご機嫌を窺った。

歴代の社長ら幹部も社主主催の茶会に参加し、足を痺れさせて立ち上がりざま転倒した者もいたという。なんとかして美知子社主の歓心を買い、「株を手放す」と言わせたかったのだ。

しかし、箱島氏までの各社長は、不調法がたたってかいずれも苦戦していた。朝日新聞内部では、そんな美知子社主のわがままぶりを指弾した文書のコピーが密かに回覧されていた。

しかし05年、秋山耿太郎氏が社長に就任したころから、事態が動き始める。この年、フジテレビの経営権が奪われかけたライブドア事件があり、読売新聞社長(当時)の渡辺恒雄氏は旧知の朝日幹部に対し、「朝日が外資に乗っ取られるという話がある。そんな事態にならないよう、がんばってくれ」と伝えたという。

元秘書役が『美知子伝』

焦りを募らせた秋山社長は顧問弁護士や美知子社主の側近を通じて繰り返し社主を説得し、曲折のすえ08年6月、ついに美知子社主が保有する株のおよそ3分の1の38万株をテレビ朝日に売却、31万9千株を香雪美術館に寄付することで合意に至った。

長身でハンサム、物腰の柔らかい秋山社長のキャラクターが「交渉成立」に寄与したのかもしれないし、このとき87歳で心臓に問題を抱えていた美知子社主の体調面の不安も、決断を後押ししたのかもしれない。

美知子社主の手元に残った朝日株は、わずか11%だった。

14年には恭平氏も保有する全朝日株を手放し、朝日のサラリーマン幹部たちは、ついに「村山家の呪縛」から解放された。

しかし、恭平氏をはじめとする村山家側は、高齢の美知子社主の判断能力の衰えに乗じるようにして株を奪い取った朝日経営陣のやり口に、強い不信感を抱き続けたという||­。

朝日新聞は歴代、美知子社主のもとに「秘書係」という名の監視役を張り付けていたことは前述したが、その最晩年の07年に美知子社主のもとに派遣されたひとりの朝日社員がいる。

樋田毅氏。78年に朝日新聞に入社し、主に大阪社会部に在籍。このとき、54歳だった。

樋田氏は大阪社会部在籍時の87年、朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲撃され小尻知博記者が殺害される赤報隊事件に遭遇、この事件の「特命取材班」に加わり、20年にわたって事件の取材にあたってきた。

その粘り強い取材姿勢を買われ、今度は社主の秘書役という新たな「特命」を会社から与えられたのである。

しかし、いつしか樋田氏は、美知子社主から半ば強引に株を奪い取った朝日新聞の姿勢に疑問を抱くようになる。樋田氏は美知子社主から詳しく話を聞き、「あなた、私のこと本に書いてね」と伝えられていたという。

社主の遺志を汲んだ樋田氏は、著書の刊行を決意した。その本『最後の社主』は講談社から3月末刊行される。朝日のタブーに触れ、現役・OBとも必読の、衝撃的内容のようだ。

本誌の取材に樋田氏は、「刊行された本を読んでください」とのみ回答した。

   

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