「ポアソニエール」と洲之内徹という人生
2018年3月号
LIFE [美の来歴]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)
海老原喜之助「ポアソニエール」(1935年、宮城県美術館蔵)
この風変わりな老人に魅入られた絵画は、いつしか手品のように手元へ引き寄せられてしまうのである。
洲之内徹は1913(大正2)年に松山市で生まれ、1987(昭和62)年に74歳で逝った画商である。美術雑誌に長期連載したエッセー『気まぐれ美術館』の才筆でも知られた。
のちに「洲之内コレクション」と呼ばれるその蒐集は、屈折の多い人生に寄り添った同時代の小詩人(マイナーポエツト)へ捧げる、モノマニアックな「恋情」の結晶と呼ぶのが適切かもしれない。
画商とはいっても、市場で人気の高い現代画家の作品や高価な泰西名画を扱うわけではない。松本竣介、萬鉄五郎、鳥海青児、関根正二……。昭和という同時代の傍流を生きた画家たちの埋もれた作品を発掘した。それは、洲之内にとって自らが歩んだ過去の失われた時間を呼びおこし、重ねてみることにほかならない。
銀座の外れの古色漂うビルにある「現代画廊」に流れ着く作品の多くは、この画商が自ら小さな車を駆って全国を巡り、あるいは所蔵者のもとに通い続けて入手したものである。
戦後、妻子のいる家庭を捨てて無頼の人となった。住み着いたのは大森に借りた、古いアパートの一室である。夜遅く画廊から部屋に戻ると、周囲に無造作に積み上げたカンバスの山に囲まれてひとり、ウィスキーを片手にジャズを聴きながら入手した新しい作品に向き合った。老いの坂道の途上に花開いた時間は、至福であった。
「蒐集」に対する人間の情熱の根源をさかのぼると、どこにたどりつくのだろうか。
大英博物館やルーブル美術館が所蔵する膨大なコレクションは、植民地など異域からの略奪や買収を含めて、大英帝国やフランスという覇権国家の力にまかせた装置であり、それゆえにその蒐集は西洋文明の正統性の証ともいわれる。
ならば「洲之内コレクション」は「昭和」という時代の影を生きた一人の日本人の、ひそやかでもかけがえのない人生の自己証明であろう。
訪ねあてた土地で出会い、心を奪われた絵画に身を寄せて集めた、もっとも小さな「世界」の構築と言い換えてもいい。
洲之内の前半生には戦争が色濃く影を落としている。
東京美術学校(現東京芸大)の建築科でドイツのバウハウス運動に傾倒したが、総力戦体制へ向かう時代に抗して左翼運動に身を投じ、非合法活動で検挙されて退学。故郷の松山へ帰っても活動を続けて逮捕されたが、服役中に偽装転向した。
1938(昭和13)年に軍が募集していた北支軍宣撫班の採用試験に合格し、敗戦までの間、中国大陸で日本軍の諜報活動に従事した。左翼経験を利用できると見込まれたとしても、180度の方向転換である。
「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす」。「三光作戦」と呼ぶ、共産軍に対する凄絶な日本軍の殲滅作戦をすすめるために、山西省などに公館を構えて、現地調査という名目で行う情報活動が洲之内の仕事であった。屈強なシェパードを従え、モーゼル銃を腰に下げて人に会い、情報を得た。人を欺き、脅し、凌辱することさえあったろう。
「厭な仕事だったが、厭だと思いながら、私はそれをやった。ということは、つまり、私は抵抗しなかった。同時に、私は、いわゆる便乗もできなかった」と洲之内は回想している。
この記述はどこかで自分のやましい過去を正当化したい洲之内の「気分」を伝える。
それは戦後に書いた小説で、中国での宣撫工作の経験を素材にして芥川賞候補にもなった『棗の木の下』などにも共通する「気分」である。
権力に抗してきた人間が、立場を変えて小さな権力を手にしたことで、それを玩具のように弄ぶ姿が、偽りなくその小説には描かれているからだ。
ともあれ、こうした虚無に包まれた戦地の荒んだ暮らしのなかで、偶然出会ったのが海老原喜之助の「ポアソニエール」という作品であり、それがこの戦争で鬱屈した男の魂を浄化する「救済」であった。
海老原喜之助は1904年、鹿児島生まれの画家である。渡仏して藤田嗣治に師事、サロン・ドートンヌに入選し、「エビハラ・ブルー」と呼ばれる明るく鮮やかな色彩と、洗練された空間構成で高い評価を得た。
洲之内がその代表作の「ポアソニエール」と遭遇するのは、山西省太原の軍司令部に勤務していた昭和18年ころである。
現地の邦字紙の記者と知り合い、自宅で日本から持ってきたという原色の複製画集を見る機会があった。その一点が「ポアソニエール」だった。地中海らしい海辺の真っ青な背景の前に、獲れたばかりの魚の籠を頭上に乗せた若い女の、透き通るような表情は、生きることの歓びを声のない囁きで伝えている。
〈知的で、平明で、明るく、なんの躊いもなく日常的なものへの信仰を歌っている「ポアソニエール」は、いつも私を、失われた時、もう返ってはこないかもしれない古き良き時代への回想に誘い、私の裡に郷愁をつのらせもしたが、同時に、そのような本然的な日々への確信をとり戻させてもくれた〉
戦後の洲之内のこの回想にはおそらく、誇張はあるまい。
復員した洲之内は同人雑誌に小説を書き、さまざまな仕事を遍歴したのち、大陸で知り合った作家、田村泰次郎の下で「現代画廊」の支配人として画商の世界に入った。
そこで再会したのが「ポアソニエール」である。「平民宰相」として知られた原敬の息子の原奎一郎と文学の縁で出会い、訪れた鎌倉の別荘の蒐集品のなかに偶然「ポアソニエール」の実物を見つけた驚きは、想像を超えるものがあったろう。
手放す気のない原を説き伏せるまでにどれほどの歳月がかかったのか。ようやく承諾を得た洲之内はその場で作品を風呂敷に包み、折からの豪雨をついて逃げるように鎌倉を後にした。
かくして洲之内の手元に落ちた「ポアソニエール」は没後、宮城県美術館に収蔵されている。
「エビハラ・ブルー」の瑞々しい輝きには、晩年何人もの女性に愛されもしたこの数奇な老人の人生が刻印されている。