明治10年の太政官決定に触れない外務省に、「国際司法裁判所で将来、議論するために」と元大使が直言。
2013年7月号
POLITICS [特別寄稿]
by 美根 慶樹(日朝国交正常化交渉の元日本政府代表)
竹島が日本に帰属していることはサンフランシスコ平和条約で確認されている。日本は朝鮮の独立を謳ったカイロ・ポツダム宣言を受け入れ、平和条約では「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄」した(第2条)。すなわち、平和条約は日本が放棄する朝鮮に含まれる島を列挙しており、そのなかに竹島を含めなかったので、この島は依然として日本の領土なのである。
平和条約の起草段階で、韓国政府から連合国に対し、日本が竹島を放棄することを明記するよう働きかけがあったが、連合国はそれを認めなかった。このことにより、日本が放棄していないことはよりいっそう明確になっている。
一方、竹島の歴史については注意を払う必要がある。日本政府は1905年、竹島を島根県に編入したが、それ以前から竹島は日本領であったとの見解であり、外務省のパンフレットは右の島根県への編入により「竹島を領有する意思を再確認した」と述べている。
国立公文書館蔵の「太政官決定」文書。内務卿大久保利通、内務少輔前島密、右大臣岩倉具視の名が見える
しかし、これより28年前に、日本政府は竹島が日本領でないと決定していた。これを示すものが本稿で取り上げる「太政官決定(布告とも呼ばれる)」である。この「太政官」決定が行われた1877年(明治10年)当時、日本は幕府体制から明治の内閣制度へ移行(1885年)する過渡期にあり、「太政官」は立法、司法、行政権など国権をすべて掌握し、内務、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務各省を統括する、現在の内閣とは比較にならない強大な国家機関であった。
近代国家の建設を急ぐ明治政府は、早くも明治2年「民部官庶務司戸籍地図掛」を設立して全国の地籍調査と地図作成を始めた。この部局は明治7年(1874年)に内務省の地理寮に改編され、後に地理局と改称された。
太政官決定はこの地籍調査のなかから生まれたものである。明治9年10月、この調査を行っていた地理寮官員の田尻某が、日本海の鬱陵島と竹島の2島を島根県の地籍に編入してよいか島根県に照会し、直ちに回答を得られなかったので、島根県から関係の資料を取り揃えて内務本省にお伺いを立てるよう指導した。内務本省ではさらに資料を集めて検討した結果、これらの島の問題は江戸時代に決着がついていたようであるが、「版図の取捨は重大事件」につき念のために確認したいと考え、大久保利通内務大臣代理の前島密より、右大臣岩倉具視にお伺いを立て、これに対し、明治10年3月29日に、「竹島外一島の儀は本邦と関係の無い儀と心得べきこと」という決定が下された。つまりこの二つの島は日本領でないという決定となったのである。
この太政官決定について現在不思議な状況が生じている。その一つは、その存在を知っている研究者の間で見解が分かれ、一部の人は、この決定の対象である島が竹島であるか判然としないという理由でこの資料を取り上げようとしないことである。もう一つの問題は、外務省の竹島問題に関する解説資料や広報用パンフレットがこの重要な歴史的資料である太政官決定にまったく触れていないことである。
前者については、島の名称に関する複雑な事情と、二つの島の地理的状況を頭に入れて見ていく必要があり、混乱が生じやすかったことは事実である。
すなわち、かつて鬱陵島は「竹島」と呼ばれていた。一方、現在の竹島は「松島」と呼ばれていたか、「外一島」と表現されていた。この例も多かったようである。ところがいつの間にか「竹島」は現在の竹島のことを指すようになった。それだけならまださほど複雑でないが、「松島」が鬱陵島のことを指すこともあった。つまり両島の名称が完全に入れ替わったこともあったらしい。このようなことは、二つの島付近を通る船が、いずれの島か確認せず勝手に思い込んだまま呼んでいたために生じたのかもしれない。昔は確認しようにも簡単でなかったのであろう。
この混乱は明治の初期に至るも解消されていなかったどころか、さらにひどくなっており、あまりに誤解を招きやすいので現在の竹島を表示するのにフランス名にしたがって「リャンコ島」と呼んでいたこともあった。さらに、外務省の当時の記録には、「これ(松島外一島)は二つの島なのか、あるいは一島に二つの名前があるのか、諸説があって政府部内ではどちらが正しいか決するものがない」とさえ記されていた。
この太政官決定は国立公文書館に所蔵されており、だれでも閲覧可能である。検索画面には一次資料でない解説書なども出てくるが、太政官決定そのものは、①『公文録』(明治十年・第二十五巻・明治十年三月・内務省伺(一))に収録されている「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」、②その副本、③『太政類典』(第二編・明治四年~明治十年・第九十六巻・地方二・行政区二)内の「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」の三つの資料に収められており、『公文録』のものが原本である。
②について説明は要しないが、③の『太政類典』は編年式の『公文録』の諸資料をジャンル別に収録し直したものなので、やはりコピーである。
この①の『公文録』は平成10年、重要文化財に指定された。近代国家草創期の国家制度整備を記した重要資料だからである。
しかるに、この決定の言う「竹島外一島」がはたして鬱陵島と竹島のことか否か確認が必要であるが、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と名付けられたこの資料の末尾に略図が添付されており、そこでは隠岐の島からの方角と距離の書き込みとともに二つの島が描かれており、鬱陵島と竹島であることが明確に示されている。
ただし、太政官決定にも名称に関する混乱の名残があり、添付の略図には「磯竹島略図」という標題がつけられているが、本文では「竹島外一島」と言っているのでどの島のことか明確になっている。「磯竹島」が「竹島」すなわち「鬱陵島」のことであると説明した資料はほかにもあり、この名称については元から混乱はなかったようである。
この伺いを起こした最初の人は専門的な知識を持った地理寮の官員であり、名称に関して混乱があることも、また、日本海のなかの小島のことなので、まぎれないような形で位置の特定が必要であったことも当然承知の上であり、だからこそ略図を添付したのであろう。プロとして当然の事務処理であったと思われる。
外務省の資料については、たとえば、ウェブサイトに掲げられている「竹島問題の概要」は、竹島付近の地理、地図から始め、主要な経緯を時系列的に説明しているが、この太政官決定にはまったく触れていない。また、『竹島問題を理解するための10のポイント』という広報用のパンフレットにも記載されていない。
1877年の太政官決定は今日の閣議決定以上に格が高いものであることは前述したとおりである。重要文化財に指定されている閣議決定など、寡聞にして知らない。
このパンフレットは、10の論点の一つとして安龍福という漁民の証言が不正確であると主張しているが、しょせん一介の漁民であり、その証言の重さは太政官決定とは比較にならない。安龍福証言が10のポイントの内の一つとして盛り込まれているのに、太政官決定がまったく触れられていないのはどういう理由からか。理解に苦しむ。
領土問題についてはどの国民も熱しやすい。それだけに「島はこちらのものだ」というように結論をぶつけあうのではなく、事実に客観的、冷静に向き合うことが肝要であり、また、それは可能である。
そのため、第一に、日本側においては、太政官決定を無視しているのではないことを示すべきである。特別の理由説明は要らない。資料やパンフレットに記載すれば足りる。
第二に、この太政官決定は竹島が日本領でないことを明言したが、朝鮮領だと断定したのでもない。今日、世界には全くの無主地、無人島などもはや存在していないかもしれないが、それは21世紀のことであり、かつては、無人島はめずらしくなく、19世紀の中葉まで竹島がいずれの国にも属していなかったとしても何ら不思議でない。
第三に、ある島がいずれかの国に属することを決定づける重要な条件は実効支配の有無である。古い文献に記述があることが領有権主張の根拠として持ち出されることがよくあるが、それだけでは実効支配の説明にならない。
第四に、日韓間では不幸な歴史があっただけに日本はもちろん、韓国も冷静に対処する必要がある。今、あらためて韓国側の問題を列挙するのではないが、サンフランシスコ平和条約の発効以前、海洋主権宣言を発出して一方的に竹島をその内側に含めた李承晩ラインから最近の李明博大統領の竹島訪問まで、日韓関係の改善・発展に役立たない行動があったことは韓国側でも冷静に直視してほしい。
日本のNPO法人と韓国のシンクタンクが今年の3~4月に実施した調査では、この1年で互いの国の印象を悪くした人は、日韓とも4割前後と非常に高い数字が出ている。その理由については、日本人の間では、「歴史問題などで日本を批判するから」を挙げる回答者が多い一方、韓国人の日本に対する不満は「独島(トクト=竹島)をめぐる対立が続いているから」というのが圧倒的に多い。また、「今後の日韓関係の発展を妨げる問題」として竹島問題を挙げた人は、日本人が83.7%、韓国人が94.6%であった。
日韓関係は非常に厳しい状況にあることが示されているが、かつて両国民は領土問題についても冷静に対処していた。前述の「安龍福」と称する朝鮮人漁民は竹島の研究に必ず登場する人物であり、韓国では国法を犯したとして逮捕されたこともあったが後に英雄として祭り上げられた。しかし、日本では、その供述の信憑性は低いと見られるなど毀誉褒貶があるのは残念だが、同人と幕府および鳥取藩(当時は伯耆藩)は冷静さを失わないで行動していた。次の諸点に注目していただきたい。
第一に、1693年(元禄6年)、安龍福ともう一人の朝鮮人漁民が鬱陵島で出会った日本人に米子へ連れてこられたが、日本側が無理やり連行しようとしたのでなく、平和裏に日本に来たことである。
第二に、安龍福は日本に滞在中、厚遇を受け、隠岐の島では酒もふるまわれた。その後、安龍福は米子へ連れてこられ、そこでしばし滞在した後、鳥取、長崎、対馬を経由してその年の末に帰国したのであるが、長崎へ向かう道中では「結構なごちそう」が出たと言っていた。
第三に、安龍福は帰国してから2年半後に、10人の朝鮮人とともに、大きな旗を押し立てた船でふたたび鳥取の赤崎灘にやってきた。今度は連れてこられたのではなく、自分たちで渡航してきたのであり、安龍福には日本へ行って、意見を述べても危険な目に遭うことはないという一種の信頼感があったと思われる。
現在、韓国政府は竹島について領土問題は存在しないという立場であるが、日本政府と見解の相違があるのは事実である。このような場合には国際司法裁判所で解決を図ることが望ましい。これは現在実現していないが、将来、あらためて国際司法裁判所で議論されることもありうる。その際には、太政官決定は重要な論点となるはずであり、それを無視していたとなれば日本側は不利になるのではないか。要するに第三者との関係でも、史実を尊重していないという印象を与えないよう細心の注意を払うべきである。