名門オペラ来日公演が存亡の危機

あのスカラ座の公演に1万円という激安チケットが登場。どうなっているのか。

2009年9月号 LIFE

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毎日新聞に掲載された激安チケットの広告

海外のオペラ劇場の来日公演、通称“引っ越し公演”が激減している。毎年十数団体が来ていた去年までとは打って変わり、今年はわずか5団体。ほぼ毎月行われる引っ越し公演や新国立劇場の誕生、家庭用AV機器の充実など、日本ではここ数年でオペラに接する機会が急増した。そこにこの大不況。かつてより耳の肥えた日本の聴衆は、5万円を超える高額チケットにそう簡単には財布の紐を緩めない。

「やっぱり出たか」。7月半ば、インターネットのチケット販売サイト「イープラス」から届いたメールに、会員の多くが思ったことだろう。9月に行われるオペラ界最高のブランド「ミラノ・スカラ座」の来日公演。その激安チケットを会員限定で受け付ける(抽選予約)というものだったからだ。

飽きられた「引っ越し公演」

この公演のチケット価格は、発表当初からファンの度肝を抜いた。『アイーダ』『ドン・カルロ』というヴェルディの2演目だが、なかでもバレンボイム指揮、ゼッフィレッリ演出の絢爛豪華な『アイーダ』はS席が何と6万7千円! 過去に日本で行われた引っ越し公演の最高額だ。

一方、激安チケット(呼称は“エコノミー券”)はわずか1万円。さらに『アイーダ』では2万2千円、『ドン・カルロ』(S席5万9千円)では1万9千円の“プレミアム・エコノミー券”まで急遽発売された。キャストの関係で売れ行きが芳しくなさそうな2日分についてのものだが、枚数や本来どのクラスの席なのかは、明記されていなかった。

このほか、通常価格でS席かA席を買うと1席につき『アイーダ』のDVDをプレゼントするという大盤振る舞いまで登場。「引っ越し公演の呼び屋の草分け的存在」といわれる招聘元の「日本舞台芸術振興会」(NBS)が販売にいかに苦戦しているかを示すエピソードだ。

あるオペラ評論家は「バレンボイムはワーグナー演奏の評価こそ高いが、ヴェルディがいいとは聞いたことがない。しかも会場は音の悪いNHKホール。6万7千円をこのご時世に出す人はいない」と呆れ顔だったが、この予想は的中したようだ。

スカラ座の『アイーダ』公演(06年12月、イタリア・ミラノ)

引っ越し公演のチケット値引きは、一昨年ごろから目立ち始めた。有名なのは2007年10月、NBSが招聘、バレンボイムが指揮したベルリン国立歌劇場『モーゼとアロン』(シェーンベルク作曲)だ。難解な現代音楽、しかも未完の作品なだけに、NBS側は「日本では売れない」と反対したが、押し切られた。案の定、4万9千円のS席の売れ行きは散々で、NBSはドイツ大使館や協賛企業のルートを通じて定価の約4分の1で投げ売りしたが、それでも会場の東京文化会館は空席だらけだった。

欧州で人気のロシア人指揮者、ゲルギエフ率いる「マリインスキー劇場」も彼自身や歌手の錬度の低下から来日のたびに評価を下げ、昨年は十八番のロシアものでさえS席5万円のチケットが売れず、招聘元のジャパン・アーツは痛手を被った。

このほか、フジテレビ系列の関西テレビが招聘した08年の「パリ国立オペラ」も、劇場側の主張で日本で滅多に上演されないデュカス作曲『アリアーヌと青ひげ』やバルトーク『青ひげ公の城』を取り上げたが、S席5万8千円という「正気の沙汰とは思えない値段」(国内オペラ団体関係者)で大顰蹙を買った。当然チケットは多数売れ残り、今回のスカラ座と同様のプレミアム・エコノミー券が販売された。

高額チケットの背景にあるのが、業界で俗に「アゴ、アシ、マクラ」と称される「食費、旅費、宿泊費の招聘元全額負担システム」だ。その実態に詳しい音楽評論家は「欧米の超一流歌手に遥か彼方の島国まで来てもらうため、高額のギャラに、旅費や滞在費まで負担する日本独特の仕組みが出来た。殿様扱いに味をしめた歌手は何度でも日本に来たがる。招聘元も改善の努力を何一つしないばかりか、ユーロ高を理由にチケット価格を吊り上げるだけ」と解説する。そのコストを負わされる日本の聴衆は、むしろ最近までこうした引っ越し公演を無批判に有難がってきた。「もともと観劇する層の中心は富裕な高齢者。高ければ高いほど価値があると考える典型的なブランド志向の人たち」(前出のオペラ団体関係者)だったからだ。

地力をつけた「新国立劇場」

しかし、その時代は俄かに終わりを告げようとしている。原因の一つが「一流と言われる歌劇場の引っ越し公演がここ数年あまりにも続いた」(オペラ評論家)こと。01年以降、NBSがスカラ座やウィーン国立、バイエルン国立、ジャパン・アーツがメトロポリタンやドレスデン国立など世界のメジャー歌劇場を次々と招聘したが、日本で人気のある演目は限られており、大物歌手もそう多くいるものでもない。「演目や歌手がかぶるケースが出てしまい、値段の高さと相俟ってチケットが売れなくなった」(同)というわけだ。

そしてもう一つは、開場から10年以上たった新国立劇場が地力をつけ、引っ越し公演を上回る成果を出すようになったことだろう。05年9月29日と10月2日の2日間、バイエルン国立歌劇場(会場:NHKホール)と新国立がワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』をほぼ同時刻に上演した。最も高い席はバイエルンの6万円に対し、新国立は2万3100円と半額以下。しかし、リハーサル不足や詰めの甘い指揮、さらに作品を強引にナチスと結び付ける演出が不評だったバイエルンに比べ、実力派の外国人歌手と粒ぞろいの日本人歌手を揃え、俊英の指揮者の下で厳格なリハーサルを積んだ新国立は高い評価を得た。新国立の演奏を聴いたバイエルンのメンバーやドイツの音楽ジャーナリストらも「新国立の方が自分たちよりレベルが上。ホールの音響も素晴らしい」と驚いたという。

「外国人歌手に支払うギャラは、引っ越し公演や日本のオペラ団体に比べてはるかに安い」(新国立劇場関係者)というが、その評判を聞いた欧米の一線級の歌手たちが、新国立に次々と出演するようになった。7月に亡くなった若杉弘芸術監督によるプログラム編成の巧みさやシーズンセット券など販売戦略も優れているうえ、公演ごとに1カ月間もの徹底したリハーサルを行い、引っ越し公演より圧倒的に高いコストパフォーマンスを実現。その結果、有料入場率は引っ越し公演の不振を尻目に07、08年度と連続で85%を上回り、実質上の完売状態だ。

海外オペラ招聘の歴史はNBSの創設者、佐々木忠次が一人で作り上げたと言っても過言ではない。90年代半ばまで、日本のオペラファンが海外の一流歌劇場の「生の舞台」を楽しめたのは、佐々木の力によるものだった。新設される第二国立劇場(現在の新国立)の在り方について意見を求められる立場にあった佐々木は、キャパシティの大きい劇場の建設を主張したものの容れられず、その後20年近くにわたりNBSのPR紙上で舌鋒鋭く新国立を批判してきた。しかし、その佐々木も昨年秋に一線を退き、オペラの引っ越し公演は存亡の危機にある。

   

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