戦後70年間、日本酒製造の新規免許は1件も下りていない。今の制度では若い挑戦者が排除されている!
2025年8月号 BUSINESS
「参入規制の壁を壊す」と宣言する「稲とアガベ」の醸造所(秋田県男鹿市)
「日本酒製造 規制緩和」――この見出しが読売新聞朝刊の一面を大きく飾ったのは、5月26日のこと。戦後初となる本格的な酒造免許の新規発行に向けて政府が動き出したというスクープは、関係各所に激震を走らせた。ある政界ウオッチャーが語る。
「1953年の酒税法施行以来、国は既存の酒蔵を守るため新規参入を認めてこなかった。でも今回は、石破茂首相が旗を振り、意欲ある若者が参入できる仕組みづくりを骨太の方針2025の実行計画に書き込んだ。酒蔵を核とする地域再生モデルにするつもりだ」
酒造業界は財務省と国税庁が堅く守ってきた「聖域」である。石破首相はその岩盤に、本気で穴を開けようというのか。
読売のスクープには伏線がある。5月21日に開かれた国家戦略特区ワーキンググループ(WG)のヒアリングだ。特区とは、地域限定で規制を緩和する制度。しかしこの日の議論は、その枠を明らかに超えていた。最初に発言したのは、秋田のクラフト酒メーカー「稲とアガベ」の岡住修兵氏。
「戦後70年間、日本酒製造の新規免許は一件も下りていない。M&A以外の参入ルートがない今の制度では、若い挑戦者が排除されている」
この訴えに続き、広島の福光寛泰氏(福光酒造)、福島の脇坂斉弘氏(ねっか)、島根の門脇淳平氏(大根島研究所)が登壇。酒造りと観光を融合させた地域活性化の可能性を説き、免許制度の見直しを強く求めた。
酒造免許を縛る根拠は酒税法第10条第11号。「需給の均衡を維持するため」との名目で、国税庁は業界の意向を受けて免許を不許可にできる裁量規定だ。だが、国税庁はさらに通達で「新規は原則不可」と定め、70年以上も門を閉ざしてきた。実態は「裁量」ではなく「封鎖」と言っていい。
WG委員側からも発言が相次いだ。中央大学大学院の安念潤司教授は「通達が法律を上書きし、裁量を奪っている」と批判。森・濱田松本法律事務所の堀天子弁護士は「ビールやワインには特区が認められているのに、なぜ日本酒だけ例外なのか」と疑問を投げかけ、大阪大学の安田洋祐教授も「制度が地域の挑戦に応えられていない」と国税庁の姿勢を非難した。
議論の最後に、座長の中川雅之・日本大学教授が「次は制度の具体設計の段階だ」と明言。議論は一気に制度改正へと踏み込み、読売の一面報道につながったのだ。
最大の抵抗勢力は、既存メーカーでつくる日本酒造組合中央会だ。「業界による需給調整」と「最低製造要件年間60キロリットル」という二重の壁で、新規参入を実質封じてきた。さらに中央会には、旧大蔵省や国税庁から天下りし、規制維持の「鉄壁」を築いている。
実際、安倍政権下の2019年、輸出専用に限って新規免許の解禁に乗り出すと、業界との衝突が表面化した。中央会は国税庁長官に対し二度にわたり要望書を提出し、「これまでの苦労が報われない」「外国資本の参入が脅威」「質の悪い酒が出回る」「技術者の引き抜きが起きる」と激しく反発した。
この動きに呼応したのが、自民党の「國酒を愛する議員の会」だ。業界を守るこの議連が加勢し、制度改革に政界も巻き込まれていく。
政府は当時、「農産品輸出1兆円」の目標を掲げ、日本酒を主力品目に位置付けていた。制度改革は業界の反対を押し切って進められ、21年には輸出専用免許が初めて交付された。ただし、国内流通を含めた自由化には至っていない。
日本酒造組合中央会の大倉治彦会長(左)、「國酒」議連会長の野田聖子衆院議員(右)と記念写真に納まる石破首相(内閣府HPより)
今年1月16日、首相官邸で象徴的な出来事が起きた。
ユネスコ無形文化遺産に登録された「伝統的酒造り」を記念した表敬訪問の席で、日本酒造組合中央会の大倉治彦会長(月桂冠社長)が「國酒の需要拡大に努める」と挨拶。そばには議連会長の野田聖子衆院議員の姿があった。
これに石破首相は一拍置くと、こう返した。
「長年の努力には感謝します。ただ、日本酒の(国内)消費が伸びない。輸出は5年で10倍に増えたし、北海道はあまり(酒蔵は)ないんだけど、北海道の日本酒を飲むと、これがまた合うんですよ」
業界ウオッチャーが言う。
「日本酒は今や海外で評価され、北海道では酒蔵の移転ブームも起きています。月桂冠のある京都・伏見や兵庫・灘の老舗ブランドを向こうに回し、石破さんの言葉には挑発的な響きがありました」
この発言に顔をしかめたのが、議連の面々だ。事務局長の宮本周司参院議員、幹事長の武藤容治経済産業大臣――いずれも老舗酒蔵出身で、業界の利害を代弁する「守旧派」の象徴とも言える人物。
「『國酒』の名のもとに制度を守り、新規参入を食い止める。それが彼らのミッションなんです」と前出の業界ウオッチャーは語る。
ここにきて世論の風向きも変わり始めている。
読売の報道を受け、自民党の若手・小林史明衆院議員がX(旧Twitter)に「新規参入が原則認められていない日本酒製造免許の改革に取り組みます」と投稿すると、10万件を超えるインプレッションを記録し、改革派の旗手として注目を集めた。
実は、酒造免許の自由化は今に始まった議論ではない。1998年12月、橋本政権下の行政改革推進本部が「需給状況が改善すれば免許制限を廃止すべき」とする「第一次見解」を打ち出している。すでに酒造免許の自由化は、四半世紀も前から、議論のテーブルに乗っていたのだ。
成功事例もある。94年の細川政権は「規制緩和と行政改革」の一環として、ビール製造に関する規制の見直しに着手した。当時は、年間2000キロリットル以上の生産能力がなければ製造免許が下りず、キリンなど大手4社以外の参入はほぼ不可能だった。
国税庁は税収確保と品質維持を理由に規制維持を主張し、ビール大手も業界秩序を盾に抵抗した。しかし、政権は地場産業の育成と多様なビール文化の醸成を目指し、最低製造量を年間60キロリットルへと大幅に緩和。中小規模の醸造所も免許を取得できるようになり、全国で地ビールブームが巻き起こった。これは、後のクラフトビール文化の礎ともなった。次は、日本酒の番なのだ。
前出の政界ウオッチャーは言う。
「国税庁は補助金を使って、休眠中の酒造免許を回収して安価で転売するM&A構想を中央会と画策しているらしい」
だが、そんな小賢しい手よりも、志ある新規事業者に正面から門戸を開いた方が、地域が確実に活性化する。それは、ビール醸造の成功例が示しているのではないか。
繰り返そう。石破政権が「聖域」にどこまで本気でメスを入れるのか。いま、それが問われている。