2024年10月号
LIFE [シン鳥獣戯画]
by 松田裕之(日本生態学会元会長)
複製・寺本英
吾輩は川(かわ)鵜(う)である。「鵜の目鷹の目」というが、どちらも餌を見つける鋭い眼つきを意味する。上空から小さな餌を見逃さない点ではHawkeyeが勝るが、吾輩は潜水したら瞬時に水晶体を調節し、水陸両用の視力を持つ。我々は全国各地で増え、特に養殖の魚を横取りする害鳥と言われ、特に鮎の養殖業者や釣り堀で目の敵にされている。しかし、1970年頃には激減し、関東では上野公園不忍の池くらいにしかいなくなった。
東京・上野の不忍池に生息するカワウの群れ(上野動物園公式Xより)
減った原因の一つは農薬に使われたダイオキシンや殺虫剤のDDTなどの環境ホルモン(内分泌かく乱物質)である。一時期、人間界でもその害が喧伝されたが、我々だけでなく、猛禽類など多くの鳥類がDDTのために数を減らした。DDTが母鳥の体内に蓄積すると、卵殻が薄くなり、孵化率が下がるのだという。最近話題のPFOSも難分解性化学物質だ。先進国でDDTを規制してから、我々を含む多くの鳥類が個体数を回復させた。
魚を探すカワウたち(藤前干潟鳥獣保護区、環境省HPより)
「琵琶湖周航の歌」に登場する「古い伝えの竹生島」には、聖武天皇の時代に建立された宝厳寺(ほうごんじ)という寺があり、島とその周辺水面は「殺生禁断」とされている。昔も我々の先祖が営巣場所としていたが、一時期いなくなり、また棲むようになった。今度は増えすぎて、樹々に巣が鈴なりになった。さらに増えたので、島に天敵がいないのをよいことに、我々は一時期地上に営巣していた。おびただしい糞が地を覆い、そのせいで樹木が枯れ、竹生島だけでなく各地の森林が糞害で枯れている。埼玉県の武蔵丘陵森林公園の池は、我々の糞のおかげで濃緑色に染まった。
宝厳寺の住職も、ついに殺生禁断の掟を覆し、被害対策に取り組む水産課の人に「モノには程(ほど)ってものがある。獲ってくれ」と言ったという。「ほどほど」という思想は、一神教にはなかなかない、仏教ならではの思想かもしれない。
鹿や熊や鯨は、昔から人間が食べていた。我々を食べるモノ好きな人間もいるようだが、食用としての商業価値は昔からない。しかし、我々の糞は、江戸時代には肥料として利用されていたという。
東京石神井公園のカワウ(撮影/本誌宮嶋巌)
ちなみに、国連職業農業機構(FAO)の世界「農業」遺産に指定されている長良川の鵜飼いは、我々よりも少し大きい海鵜をつかっている。日本の鵜飼は1000年以上の歴史があると言われるが、鵜匠が野生の鵜を捕まえて飼いならす。中国にもあり、人間が繁殖させ飼育した家禽の川鵜を使っているという。
琵琶湖は鮎の養殖や放流に用いる生きた種苗用鮎の漁獲が盛んだが、養殖魚は、天然魚と比べて警戒心が薄い。自然界では用心深さに個性があり、不用心な魚から食われるから、世代を追うごとに用心深くなるよう「進化」する。養殖魚は別の目的で「種馬」ならぬ「種魚」を残すので、吾輩は難なく養殖鮎を獲り続けることができる。鮎の身を守るのは鮎自身でなく、商品価値のある鮎を漁獲し育てたい漁業者や養殖業者である。数メートルおきに視認性の低い色の「防鳥糸」を張り、我々が滑空して魚をさらう邪魔をする。当初、滋賀県は卵に油を塗って孵化を失敗させようとしたり、騒いで追い払うなどの「対策」を採っていたが、その程度の浅知恵では、我々は順調に子孫を増やすことができていた。最近、人もサルもので、ドローンを駆使するなど、新たな対策マニュアルもできている。
竹生島で銃を発砲すれば、1羽は犠牲になるが、他の鳥は用心できる。
ところが、とんだ難敵が現れた。猟友会ならぬ民間会社が空気銃を使って我々の大量殺戮を始めた。空気銃で逃げにくいよう工夫され、1日に千羽以上の仲間が犠牲になった。
滋賀県で、2008年春には約3万8千羽いた仲間は、10年には2万羽以上捕獲され、16年には約6500羽にまで減らされた。我々も、無為に殺され続けたわけではない。11年に竹生島の対岸の葛籠尾崎(つづらおざき)に移住したが、すぐにばれてしまい、空気銃部隊も追いかけてきて、結局新天地を放棄せざるを得なかった。8月号の「鹿・人戦争」では人間側に軍師がいないと鹿が言いのけたが、我々に立ち向かう人間はもう少し知恵があった。しかし、我々も安曇(あど)川などに営巣地を分散し、生き残りを図った。滋賀県では4000羽に減らすことを目指していたが、それは阻むことができるだろう。ちなみに、空気銃は我々に対しては有効だが、鹿や熊の狙撃には殺傷力が足りないようだ。
熊の駆除事業では、危険な熊駆除に猟友会が協力しない事例が出ているという。本来、狩猟免許はゲーム狩猟のための制度であり、猟師が登録料を払って楽しむものだ。狩猟と異なり、農地や森での有害駆除は持ち主自身が駆除許可を得て行うものだった。我々野生鳥獣の数が減っていたうちは、それでよかった。増えすぎた後は、農林地を荒らす「犯人」だけでなく、個体数を減らすための許可捕獲を行うようになり、猟師に報償金を出すようになった。これは本来、駆除を専門とする者が行うべきなのだろう。自衛隊が担うには法改正が必要だ。銃刀法は犯罪事件のたびに厳しくなり、銃はなかなか普及しない。国有林の森林管理署職員や国立公園の自然保護官はまだ罠捕獲くらいで、銃猟は業務にない。
どうやら、川鵜対策には人間側も精鋭部隊が投入されていたようで、15年に鳥獣保護法が鳥獣保護管理法に改定された際、川鵜対策を先例に認定鳥獣捕獲等事業者制度(職業駆除者)が導入され、夜間や道路での銃猟ができる資格が与えられた。ゲーム狩猟以外の担い手が川鵜以外にも広がる恐れがあった。
幸い、この制度は人間側でも浸透していない。依然として各地の各鳥獣対策の多くは猟友会が主導権を持ち、それ以外の 職業駆除者のほうが失業寸前だ。12年に導入された神奈川県の鹿管理のためのワイルドライフレンジャーも、22-26年度の今期計画限りで打ち切られることになった。滋賀県の川鵜対策でも、我々を大量捕獲した事業者とは受託を巡るライバルと言える。猟友会は吾輩の敵ではあるが、最悪の敵ではない。
もともと、人間側の対応は、鹿、熊と野鳥でそれぞれ違っていた。どれも半世紀前には数が減り、保護されていた。鹿がまず数を増やし、知床や屋久島、都市市民の近場の神奈川県丹沢などで自然保護と獣害対策の論争があった。熊では強力な愛護団体があったせいもあり、人身被害が多発するまでどの都道府県でも個体数調整に及び腰だった。野鳥については「日本野鳥の会」が個体数管理に懐疑的で、環境省が1999年の鳥獣保護法改正で特定計画制度を導入した際に作った「特定鳥獣保護管理計画技術マニュアル(共通編)」に対しても、鳥類に適用しないという声が多く聞かれた。
確かに、共通編は個体数が不確かである前提で作られているが、野鳥は実数を数える野鳥の会が全国に大勢いる。紅白歌合戦で20世紀に野鳥の会などや2015年頃に麻布大学野鳥研究部が会場投票を数えていた。だが、不確実なのは個体数だけではない、自然増加率とその年変動、目標捕獲数と実績の乖離があることを踏まえた管理という点では、マニュアルは共通し、滋賀県の川鵜対策は個体群管理の先例となった。数を減らすだけが能ではないという主張も、「まずはいったん減らしてから」別の工夫を考えることに落ち着いた。
鳥獣の種類による違いだけでなく、欧米と日本と途上国でも、かなり違う。日本は長らく、西側先進国の中の非キリスト教国として極めて特異な立場であった。捕鯨が典型例だが、ヴァイキングの歴史がある北欧諸国は捕鯨を続けている。これらの国々もキリスト教国で、有力諸国の中で非一神教非共産国と言えるのは日本くらいだろう。他国からは優柔不断とみられるかもしれないが、それは「程を知る」鳥獣対策にも表れている。
鵜飼はFAOに登録されたが、野生の鵜の首根っこを抑えて鮎を採る漁具にするなど、動物愛護の観点から、特にキリスト教国には受け入れがたいだろう。中国のように家禽を使うなら認められるかもしれないが、これも時間の問題だ。以前、日本では太地町の追い込み漁で捕獲したイルカを使った水族館のイルカショーが批判され、世界動物園水族館協会から日本協会が除名される動きがあったが、太地からの購入を協会として禁止することで難を逃れた。その結果、新江ノ島水族館などが日本協会を脱退した。他方、飼育個体を使っていた米国サンディエゴのシーワールドでは、15年に、飼育下にあるシャチを使ったオルカショーを段階的に廃止していくと発表した。インドや欧州、中南米などでシャチの飼育を禁止する法案が可決されているという。
日本が野生の鯨肉を食べるのを批判していた欧米の動物愛護家の多くは、結局は家畜食もやめて菜食主義者になった。彼らの自然保護思想もまた、過去と現在では異なり、将来も変わり続けるだろう。彼らが保護対象とする肉食獣自身は草食獣を食べている。菜食主義者も、動物園の中でさえ、肉食獣に肉食をやめるよう説得する気配はない。吾輩も、野生と養殖の魚を頂いている。
他方、生物多様性条約では、先住民の知恵に学ぶことが奨励され、新たな展開を見せている。人間を生物圏の一員とみなし、原生自然の保護より都市を含めた「人が触れ合う自然」の回復が主題となりつつある。そして、南米先住民思想を持ち上げつつ、人間を自然の外に置く自然観を批判している。
これはまだ国際条約に参加する人々の意識変化であり、西洋社会全体が変わるとしても、さらに半世紀以上の時間がかかるだろう。
人間社会を見ていると、彼ら自身の生活のために必死で対策をとる側面と、法律や倫理や世界標準のために自縄自縛になる側面があるようだ。人間たちのゆとりの表れともいえるが、我々は助かる。菜食主義やイルカショーのように、彼らの主張は10年経てば変わる。またいつか、吾輩の糞を人間どもがありがたく利用する日が来るかもしれない。
[謝辞] 原稿執筆段階で、日本イヌワシ研究会会長須藤明子博士、水産研究・教育機構坪井潤一博士、滋賀県琵琶湖博物館の亀田佳代子館長、よこはま動物園ズーラシアの村田浩一園長の助言を参考にしました。
また、原稿執筆にあたり、参考とした情報を個人サイト
https://ecorisk.web.fc2.com/FACTA-Froricking-Animals.html
に掲載しています。