独り歩きする虚説「帝国憲法発布式に大礼服」

大礼服の一般公開に合わせて所蔵元の大聖寺が発表した「虚説」を多くのメディアが鵜呑み。

2023年4月号 LIFE
by 吉原康和(ジャーナリスト)

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昭憲皇太后(米スミソニアン美術館)

明治天皇の后、美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)の大礼服(マント・ド・クール)を巡り、大日本帝国憲法(明治憲法)発布式に着用したとする虚説が独り歩きしている。所蔵元の大聖寺(京都市)が大礼服の一般公開に合わせて発表、多くのメディアも取り上げた。しかし、根拠が希薄で、数々の疑問が浮かんでいる。

この大礼服は2018年から行われていたトレーン(引き裾)の修復が完了したことから、2月11、12日、大聖寺で一般公開された。

大聖寺の配布資料や関係者によれば、「帝国憲法発布式着用説」の根拠は、欧州の宮廷儀礼を導入するため夫人とともに招聘されたオットマール・フォン・モールの回想録。『ドイツ貴族の明治宮廷記』(講談社学術文庫)によると、発布式当日の夜に行われた舞楽拝観の際、「皇后は白地に金色の洋服を召され」という記述がある。この「白地に金色の洋服」が大聖寺蔵の大礼服と類似していることが一つの根拠とされた。

この発表を受け、<昭憲皇太后の「大礼服」 帝国憲法発布式で着用>と産経新聞が2月11日付朝刊第二社会面で報じたほか、<憲法発布式で着用の可能性>と朝日新聞やNHKなども報道。ネット上では「憲法発布式着用説」が独り歩きしている。同説のどこに問題があるのか。

午前中に行われた憲法発布式の皇后の服装については、モールは「バラ色の衣裳」と表現し、この模様を描いた床次正精ら画家たちの絵画はいずれも中礼服(ローブ・デコルテ)だ。当日、色の違う複数の中礼服を着用することはあるが、皇室の外交儀礼(プロトコル)上、昼間の儀式より格の低い夜の儀式に最も格式の高い大礼服を着用するのは、不自然とする疑問だ。多くの研究者も「あり得ない」と指摘する。

実際、1894年の天皇と美子皇后の結婚25年を祝う式典の舞楽拝観の際も、中礼服だった。

憲法発布式の3年前、明治政府は、皇族や大臣、勅任官以上の女性が着る礼服として、大礼服、中礼服、小礼服(ローブ・ミー・デコルテ)、通常礼服(ローブ・モンタント)の4つを制定。大礼服は最も格式の高い第一礼装で、日本では新年拝賀と皇族の婚儀に着用。中礼服は夜会や宮中晩さん会など、着用基準も行事の格式に応じて厳格に決められていた。

当時の宮内省の公式記録である『憲法発布式録』(宮内庁宮内公文書館蔵)の収録史料の中に、憲法発布式当日の天皇、皇后の服装に関して次のような記載がある。

憲法発布式・着服の事(「憲法発布式録」(宮内公文書館蔵)より)

皇帝陛下 御正装

皇后陛下 発布式晩餐夜会 中礼服

観兵式 通常礼服

男性は正装である軍服姿の天皇をはじめ、身分や官位に応じた豪華絢爛の大礼服を着用していたが、皇后は、通常礼服を着た観兵式をのぞく発布式、晩餐会、夜会(舞楽拝観)の3つの行事ともに中礼服と記載されている。皇后以下参列女性も同様で、大礼服着用の記載は一切ない。答えは、もはや明らかであろう。

著者プロフィール

吉原康和

ジャーナリスト

   

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