特別寄稿/大塚耕平・参議院議員 /「天皇制・皇統系譜」は日本文化の真髄

戦後レジーム脱却を訴えるならばGHQによって皇籍離脱させられた宮家の皇籍復帰を実現すべき。

2022年12月号 LIFE [三耕探求⑩]
by 大塚耕平(参議院議員・早稲田大学客員教授)

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「光格天皇像」(東京大学史料編纂所蔵・模本)

エリザベス女王は生前に自らの国葬に関する手順等を指示していたそうだ。国民統合に寄与する国葬となるように、死してなお国家と国民の行く末に思いを致すエリザベス女王に敬服する。成人年齢で第2次世界大戦と向き合った主要国最後の指導者だった。

一方、中国では戦後生まれの習近平政権が異例の3期目入り。終身国家主席を目論んでいるとの憶測も流れる。ロシアのウクライナ侵攻と相俟って、国際情勢はきな臭さを増している。

血統主義と易姓革命

国宝「聖徳太子および侍者像」のうち聖徳太子(奈良・法隆寺蔵)

中国における易姓革命という思想は、王朝交代を正当化する必要性から生まれた。儒教に基づく五行思想等が背景となっている。

天は己の代わりに王朝に地上を治めさせ、王朝が徳を失った時に見切りをつけ「革命(天命を革める)」を起こす。新たな徳を備えた王朝を立て、姓が易わるので易姓革命である。血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠である。それを悟って皇帝自ら譲位するのを「禅譲」、武力によって追放されることを「放伐」という。中国歴代王朝交代は権力争奪の歴史であり、それを正当化するのが易姓革命である。

近世西欧社会では君主の血統が最も重視されたことと対照的である。西欧諸国では、君主直系が断絶した際、相応しい血統の者が存在しない場合には他国の君主血族から新王を迎えて王朝を興すほど血統主義が支配的であった。

究極の存在が日本の皇統である。現在、世界には27の王室が存在するが、最古は日本。今上天皇は126代であり、少なくとも6世紀以降は血統が変わっていない「万世一系」。つまり1500年以上続く王室である。

因みに、2位は西暦900年以降続いているデンマーク。3位は、1066年にフランスから上陸したギヨームが創始したノルマン王国に端を発する英国である。

国際情勢の緊迫を映じ、日本もようやく安全保障を直視するようになった。それは歓迎すべきことだが、真の安全保障とは狭義の軍事的安全保障にとどまらない。

技術や産業を対象とする狭義の経済安全保障に加え、エネルギー、食料など広義の安全保障は幅広い。とりわけ、言語や伝統を含む文化は安全保障の要である。

日本の天皇制、皇統の系譜は、日本の文化の真髄であり、世界に類を見ない国家の安全保障の核心である。

朝鮮半島も易姓革命の文化である。だからこそ、隣国の新興宗教団体開祖が「日本の天皇を跪かせることが目標」などという妄言を吐く。さらには「日本女性に贖罪させる」という主張もしていた。そうした団体に日本の指導者や政治家が与することは、国家と国民に対する反逆と言って過言ではない。

この連載コラムでは、日本の構造問題や国家の根幹に関わる事象に焦点を当てている。今回は、日本という国家の存続にとって不可欠の文化的事実を共有することに誌面を割きたい。

日本皇統は紀元前660年即位の神武天皇からとされているが、西暦712年に編纂された『古事記』に基づく神話的内容も含まれている。

12代景行天皇からは史実に裏付けられる。その頃は「天皇」と称さず「大王(おおきみ)」「治天下大王(あめのしたをしろしめすおおきみ)」と言われていた。

581年、約300年振りに中国統一王朝である隋が成立。593年、倭国では推古大王(初の女帝)が即位し、甥の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政皇太子に任じられた。

607年、聖徳太子は遣隋使小野妹子を派遣。中国王朝への使節派遣は129年振りであった(600年にも派遣したが隋に相手にされなかった)。129年前(つまり478年)に当時の王朝(宋)に使節を派遣したのは21代雄略大王。朝貢的意味を持ち、言わば大陸王朝からの冊封を形式的に受け入れていた。

その後、華北は五胡十六国時代に入り、江南は東晋・宋・斉・梁・陳と変遷したため、倭国大王は使節派遣を止めた。

倭国使節の国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記してあるのを見て、隋の煬帝は激怒した。

「日出づる処」「日没する処」の対比も問題だが、最大の問題は「天子」という表現。「天子」は中国王朝の「皇帝」を意味したからだ。

ところが、煬帝は小野妹子に使者と返書をつけて倭国に送還。その背景には当時の東アジア情勢が影響していた。隋は隣国高句麗と戦争状態(隋麗戦争)にあり、高句麗の南に位置する倭国と良好な関係を結び、高句麗を挟み撃ちにすることを狙った。典型的な「近攻遠交」策である。

「天皇」号と「日本」国名

聖徳太子はこの情勢を見抜いたうえであえて非礼な国書を送った。太子は秦河勝(はたのかわかつ)(新羅系)、慧慈(えじ)(高句麗系)、覚哿(かくか)(百済系<元々はササン朝ペルシャ人>)という3人の側近を抱え、大陸・半島情勢を熟知していた。太子の外交手腕によって、倭国は隋に冊封される関係にはならなかった。

翌608年、再度小野妹子を派遣。携えた国書には「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」と記し、倭国の「天皇」と隋の「皇帝」を使い分けた。この時が「天皇」号の初出である。

隋への国書には「天皇」と記したものの、倭国内ではまだ「天皇」号は定着していない。倭国は645年の大化改新等を経つつ、律令国家としての体制整備を進める。

661年、斉明大王崩御。663年、倭・百済連合軍は「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れ、大陸からの侵攻に備えた国家体制整備が急務となる。皇位に就かずに事実上統治していた息子の中大兄皇子は668年、天智大王として即位。弟は大海人皇子、息子は大友皇子である。

672年、天智大王崩御。大友皇子は弘文大王として即位するが、大海人皇子との決戦不可避と考え、「壬申の乱」勃発。「瀬田の戦い」で敗れた弘文天皇は自害。673年、大海人皇子が天武天皇として即位した。この時、初めて「天皇」号が使われた。

天武天皇は『古事記』『日本書紀』編纂を下命。もともと聖徳太子が『国記(くにつふみ)』『天皇記(すめらみことのふみ)』編纂を命じていた事業を継承したものと思われる。そして、初代に遡って「天皇」号が追号された。

国名は依然として「倭国」または「日出処(国)」であったが、『旧唐書(くとうじょ)』によれば、701年の第7次遣唐使粟田真人(あわたのまひと)が「倭国の地を統合し、太陽の昇る彼方にあるため日本という名をつけた」と説明したという記述がある。

「天皇」号の日本的意味は中国の易姓革命との対比から考察可能である。上述のとおり、易姓革命とは王朝交代を正当化する理論。天命による交代を意味する。

中国では易姓革命による初代皇帝は「天子」となるが、次代以降は「皇帝」にしかなれない。しかし、日本の「天皇」は「天子である皇帝」すなわち「天皇」と解釈され、「天子」でもあり「皇帝」でもある。

そもそも天皇には姓がなく、「当今(とうぎん)様」「主上(しゅしょう)」「お上(かみ)」「今上陛下」と呼ばれる。姓がないので易姓革命は起きないうえ、全員が「天子」である。

中国では初代皇帝のみ「天子」と認識されて「即位改元」となり、2代目以降は年末まで同じ元号が使われる。一方、日本の天皇の皇位継承時は全て「即日改元」である。歴代天皇全てが「天子」であると認識されている故である。

男系男子の歴史

中国『宋書』に「讃(さん)」「珍」「済(せい)」「興」「武」の「倭の五王」が記されている。『梁書』には『宋書』の「珍」に当たる王が「弥(み)」と記されている。

各王が何代目の天皇に当たるかは専門家の研究対象だが、武王が21代雄略天皇であろうことは概ね定説である。

22代清寧天皇で直系が絶え、16代仁徳天皇の3世孫である23代顕宗天皇、つまり6世隔たった血統に継承された。

25代武烈天皇も直系が絶え、今度は15代応神天皇まで遡り、その5世孫であり、北陸に住む男大迹(おおど)が継承。武烈天皇から10世隔てた血統であった。男大迹は26代天皇として即位し、皇統を継ぐという意味の「継体」と号した。

15代応神天皇以降の117天皇(南北朝双方を含む)のうち、直系子皇嗣、つまり1世に皇位継承したのは54天皇である。残る63天皇は直系以外への継承であり、直系と直系以外はほぼ半々だ。

「伝後花園天皇像」(京都・大應寺蔵)

南北朝後、101代称光天皇のあとは8世隔てた102代後花園天皇となり、それから暫くは直系が続いた。118代後桃園天皇で再び直系が絶え、7世隔てた119代光格天皇が即位し、以後の系譜は今上天皇に至るまで光格天皇の直系が続いている。

102代後花園天皇と119代光格天皇の系譜は7代連続で直系継承し、初代も含めると8代直系である。但し、後花園天皇の系譜は途中に孫への2隔世継承が含まれている。

複数代にわたって直系が続いた38天皇を除くと、残る16天皇の直系継承は1代限り。つまり親が子に継承し、その次は直系以外に継承された。

15代応神天皇以降の111代で、直系が絶えた(系図上、直系男子が確認できない)のは21天皇である。うち、兄弟等へ2世隔てた皇位継承は8天皇、甥等への3世以上隔てた皇位継承となったのは13天皇である。

上皇陛下の姉君(昭和天皇の第1皇女)照宮成子内親王は1925(大正14)年にお生まれになった。ご両親である皇太子裕仁親王、良子妃のご意向もあり、里子には出されずに養育された。当時としては画期的なことである。

成子内親王は1941(昭和16)年に東久邇宮稔彦(なるひこ)王の第1王子・盛厚(もりひろ)王と婚約、1943(昭和18)年にご結婚された。

ご結婚相手が皇族であったため、成子内親王も皇族のままだったが、敗戦後の1947(昭和22)年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の意向により、義父である東久邇宮稔彦王が皇籍離脱したため、皇室典範の定めによって夫盛厚王とともに皇族の身分を離れた。

成子内親王の夫となった東久邇宮盛厚王の父東久邇宮稔彦王は、戦後、終戦処理内閣(皇族内閣)として第43代内閣総理大臣を務められた宮である。

東久邇宮稔彦王は、1887(明治20)年に久邇宮朝彦王の第9王子として生誕。宮家の末子として、成人後に臣籍降下して伯爵となる予定だったが、明治天皇の第9皇女である泰宮聡子内親王とご結婚されたため、東久邇宮家をお立てになった。

つまり、東久邇宮稔彦王・盛厚王親子は、父が明治天皇の皇女、息子が昭和天皇の皇女とご結婚されたということである。

稔彦王の父久邇宮朝彦王は1824年、伏見宮邦家王の第4王子として生まれた。天保年間には120代仁孝天皇の猶子となり、228世天台座主もお務めになっている。幕末史にも登場する宮であり、1875(明治8)年に久邇宮家を創設された。

久邇宮朝彦王の第3王子が邦彦王である。第9王子である東久邇稔彦王の兄に当たる。そして、久邇宮邦彦王の第1女王として1903(明治36)年にお生まれになった良子(ながこ)女王は、長じて1924(大正13)年に皇太子裕仁親王とご結婚された。つまり、後の昭和天皇の皇淳皇后である。

朝彦王の父、伏見宮邦家王は1802年生まれで、北朝3代崇光天皇の男系14世孫である。1817年に光格天皇の猶子となった。邦家親王は男子を多くなし、明治以降の伏見宮系皇族隆盛の端緒となった宮であり、戦後に皇籍離脱した11宮家全ての源流に当たる。11宮家のうち5宮家は系譜が絶えたものの、現在も6宮家が続いている。

伏見宮邦家王が崇光天皇14世孫ということは、久邇宮朝彦王は15世孫、邦彦王及び東久邇宮稔彦王は16世孫、盛厚王は17世孫になる。そして、皇淳皇后の子である上皇陛下にとって、昭和天皇は父、久邇宮邦彦王は母方の祖父、久邇宮朝彦王は曽祖父、伏見宮邦家王は高祖父となる。

さらに、伏見宮邦家王と久邇宮朝彦王が猶子となった119代光格天皇と120代仁孝天皇は、今上天皇陛下の直系祖先である。その後、幕末の孝明天皇、そして明治天皇、大正天皇、昭和天皇、上皇陛下、今上陛下とつながる。つまり、今上陛下は光格天皇8世となる。

旧宮家の皇籍復帰を検討すべき

以上のように、現在の天皇家の系譜と、伏見宮、久邇宮、東久邇宮は近い関係にあり、その東久邇宮の系譜には、盛厚王と成子内親王の間に3人の男子(長子はご逝去)、その次世代には5人の男子、さらにその次世代にも数人の男子がいらっしゃる。

以上の東久邇宮の系譜に加え、1947(昭和22)年に作成された「皇位継承順位系図」の8位継承者・賀陽宮(かやのみや)恆憲王の系譜にも複数の男子がいらっしゃるようだ。

本年1月18日に開催された天皇退位特例法附帯決議に基づく政府検討結果報告には筆者も出席した。

有識者会議の皇族数確保策の案として先に提示された「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分保持」「皇統に属する男系男子と養子縁組」「皇統に属する男系男子を法律により皇族復帰」の3案のうち、前2案を優先するとしているが、第3案も早期に検討すべき時期に来ている。

養子縁組案は親となる皇族側のご意志如何による。また、内親王との縁談を期待する向きもあるが、それはご当人同士のご意志次第である。さらに、仮にご結婚が実現しても、男子に恵まれる保証はない。

養子縁組も縁談も、その対象として東久邇宮、賀陽宮等の男子を想定しているのであれば、上記の不確実性を乗り越えるためには、皇籍離脱を余儀なくされた系譜に属する男系男子の皇籍復帰が最も確実に皇族数確保と皇統維持に資する。すなわち第3案である。

生前の安倍総理には「戦後レジーム脱却を訴えるのであれば、GHQによって皇籍離脱させられた宮家の皇籍復帰を実現すべきではないか」と何度か質問したが、否定的な答弁に終始していたのは残念なことであった。

日本の皇統は、日本という国家の根幹に関わる国民共有の文化である。まさしく、戦後レジームからの脱却が必要と考える。

日本国憲法第1条には、天皇は国民の総意に基づく日本国及び国民統合の象徴と明記されている。皇統史について国民共通の認識が醸成されることが望まれる。

【「三耕探究」とは?】「学有り、論優れども、心貧すれば、任に能わず」という考えから、「耕学」「耕論」「耕心」すなわち「三耕」の「探究」の重要性を示す筆者の造語。

著者プロフィール
大塚耕平

大塚耕平(おおつかこうへい)

参議院議員・早稲田大学客員教授

日本銀行を経て参議院議員。早稲田大学客員教授(早大博士)、藤田医科大学客員教授を兼務。仏教研究家、歴史研究家としても活動中。

   

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