2020年12月号
BUSINESS [必要原理主義者]
by 伊藤博敏(ジャーナリスト)
井手英策慶大経済学部教授
菅義偉政権がスタートして2カ月が経過、その経済戦略は、金融緩和と財政出動という主軸は動かさず、日本経済を成長路線に乗せる、というものである。
今、打ち出しているのは、携帯電話料金値下げ、不妊治療助成、地銀再編、ハンコ文化からの脱却などで、骨太の軸は見えない。ただ、新たに「成長戦略会議」を立ち上げ、そのメンバーに竹中平蔵パソナ会長、デービッド・アトキンソン小西美術工藝社社長などが名を連ねており、経済的には「成長」、財政的には「緊縮」が窺える。
一方、コロナ禍のなか、勢いを増しているのがMMT(現代貨幣理論)である。世界各国が、中央銀行とともに財政出動を行っており、緊縮が定番の国際通貨基金(IMF)ですら「積極的に財政を活用すべき」と、打ち出した。
自国通貨建ての国債に債務不履行のリスクはなく、インフレに留意すれば、どこまで財政支出を拡大しても構わない、というのがMMT。純粋なMMT派は少ないが、国内でも与野党問わず、亜流を含めてMMTを野放図な財政への「免罪符」として利用している政治家は少なくない。
緊縮かバラ撒きか――。
そのどちらにも与したくない政党、政治家、国民に、今、最も注目されているのが井手英策慶応大学教授(48)である。
民進党時代、前原誠司氏のブレーンとして「オールフォーオール(みんながみんなのために)」を提唱、脚光を浴びただけに「再度の注目」だが、財源を税に置き、誰もが必要とするベーシックサービスを無償で提供、分かち合いの社会を築くという提言は、「規律」と「共生」の両方を満たすものだ。
17年3月に行われた民進党大会に、来賓として招かれた井手氏は、「傍観することが許されない時代だ」と決意表明、「自己責任の財政をつくり変え、分かち合い、満たしあいの財政にしていく。貧しい人だけでなく、あらゆる人々の生活を保障、経済成長に依存せず、将来の不安を取り除けるような社会モデルを示す」と訴え、万雷の拍手を浴びた。
日本は、欲望を成長エンジンにして経済を回す資本主義のダイナミズムを喪って、低成長に喘ぎ、二極化のなか自己責任による自律を余儀なくされている。そこに井手氏は、財政学の立場から「国家の在り方」と「国民の生き方」を提示する。
改めて問おう。井手英策とは何者か。
*
――前原氏のブレーンとなって以降、民進党は分裂しましたが、発言は続けています。オールフォーオールにつながる税を負担しながら教育、医療、介護などの基本的サービスを提供するベーシックサービスを始めとする井手さんの方策が、「いいとこ取り」の形で与野党を問わず使われています。民進党の「裏切り」後も発言を続けているのはなぜですか。
井手 前原さんや民進党に裏切られたという思いはないんですよ。その時々に利用できるものを利用するのが政治。それが恐いなら近づくべきじゃない。当時、希望の党に合流せず、議席を50、60まで減らす道を前原さんは選ばなかった。そして、政治生命をかけた決断は実らなかった。無念だったろうな、とただただ思うだけです。
そもそも、僕は希望の党への協力はできないと前原さんに伝えていました。彼女(小池都知事)らの政策と僕の哲学は違うからです。僕は前原さんに請われて民進党の拠って立つ社会像を示したわけですが、僕は自分の主義主張を一ミリも動かしませんでした。拡がる貧困と格差社会、不安におびえる国民、手をこまねいている政治……僕のなかにあるのは怒り。自分の学問知をフル動員したいという強い衝動。それに火をつけたのが前原さんでした。もう、特定の政党とは付きあっていませんが、メディア等に聞かれたときには、その思いをぶつけています。
セアカゴケグモって知ってます?
脊赤後家蜘蛛。読んで字のごとくの毒蜘蛛です。このマイナーな蜘蛛をずっと研究していた学者がいて、1995年、日本(大阪府高石市)で初めて発見されたとき、その研究者は一躍脚光を浴びました。研究とはそんなもの。積み重ねた学問が役に立つ時、それを生かさなくてどうするのでしょうか。
僕は自己愛の強い人間です。自分が好きだから、自分のいるこの社会が大事なんです。僕は4人の子どもと連れ合いを愛しています。僕の家族ですから。今、住んでいる小田原も日本も大好きです。自分が生まれた国、生きていく町ですから。僕は自分が大事だからこそ、社会を大事にする。
東日本大震災(11年3月)の翌月、僕は脳内出血で倒れ、死にかけたんです。大学からは止められましたが、リハビリを経て後期の授業から無理やり復帰しました。人間はいつ死ぬか分からない、明日死ぬかも知れないと分かったからです。大切な家族や仲間のために、何かを言い残して死にたくないという思いが僕を支えています。
――新自由主義にはハッキリと批判的な立場です。行政改革による小さな政府、規制緩和によるイノベーション(技術革新)で経済成長を成し遂げるのはムリだと主張、低成長でも国民のニーズを満たし、ベーシックサービスを提供、貯蓄がなくとも不安のない社会を提唱しています。そのサービスを「尊厳ある生活保障」と呼んでいる。成長なくしてサービスを提供できますか。
井手 90年代以降、政府は成長のためにいろんな標語を掲げ、国民を豊かにしようとしました。橋本龍太郎内閣では規制改革と行革、小渕恵三内閣では減税と公共事業、小泉純一郎内閣では歳出削減と規制緩和、そして安倍晋三内閣では金融緩和、財政出動、成長戦略、いわゆる三本の矢です。
正反対の政策を平気で並べ立て、成長への幻想をバラ撒いたわけですが、いまだに97年の所得を超えられていません。かつてのような経済成長はムリだと、国民は気づき始めているんじゃないでしょうか。設備が海外に移転し、少子化で生産年齢人口は減り、労働生産性も下がっています。これは先進国に共通する病です。
政治が主張すべきなのは、成長が生み出す富を当てこんでサービスを充実する道じゃない。税の痛みを訴えるかわりに、その使途を明確にし、サービスをすべての人たちに提供して、将来不安から人間を解放することです。子育て、教育、医療、介護、障がい者福祉、これらを僕はベーシックサービスと言いますが、それが全員に行き渡れば、病気をしても、失業しても、長生きしても、貧乏な家に生まれても、障がいを持っていても、安心できる社会になります。
消費税をもう6%あげれば、そんな社会は実現します。97年以来、家計の貯蓄は300兆円以上増えました。その一部を税で集め、毎年度使う。例えば大学の授業料がタダになれば、浮いたお金は消費と貯蓄に回ります。暮らしを満たしあい、頼りあえる社会を作る。人間の尊厳を守りつつ、経済の成長トレンドをあげるのです。
病気や失業はだれの身にも起きます。運が悪かったで片づけられないし、お金をあげて、恩着せがましく助けてあげるのも正しくない。弱者を助けるのではなく、弱者を生まない社会を作るんです。だれもが納税者になり、堂々とサービスを使う。それが「尊厳ある生活保障」です。
――成長依存からの脱却は、難しいようでいて、実は既に始まっています。ベーシックサービスだけではなく、安倍政権下の未来投資会議の資料(18年10月、スマート公共サービス会合資料)には、井手さんの持論の「公共私ベストミックスによる社会課題の解決」も提唱されている。
政府も成長による未来戦略に限界を感じている。そこで、政府の支援では不足する個々のニーズを「公」と「共」と「私」が一体となって充足する井手理論(イデノミクス)に相乗りしている印象です。
底流にあるのは、支えあいであり「頼りあえる社会」ですが、どうして、そういう社会を構想されるようになったのですか。
自宅前で母と兄と
井手 僕の生い立ちが理由かもしれません。福岡県久留米市の生まれで、貧しい母子家庭に育ちました。母は離婚を経験。僕には父が違う兄と姉がいます。母が40歳の時の子だったんですが、出産をためらう母を、「ボロ着てもよかやんね。うちも手伝うけん」と、叔母が背中を押してくれたそうです。
その叔母が朝から晩まで働いてくれ、母は、「あんたからは一瞬も目を放さんかった」というほど、いつも僕の側にいてくれました。勤労奉仕で片腕をなくした叔父もかわいがってくれました。3歳からバイオリンを習い、小学校は国立、ランドセルもそろばんもリコーダーもクラスで一番のものを買ってくれました。文字通り、ボロを着てでも、すべてを僕に費やしてくれた、素晴らしい家族でした。
でも、小学校4年の時、暮らしが一変します。学費のために母が小さなスナックを始めたんです。家にひとりでは置いておけないというので、夜はスナックのカウンターが勉強机でした。仕事帰りの叔母が迎えに来る午後10時頃まで、ホステスさんやお客さんの「大人の会話」を聞いてました。みんなに可愛がってもらいましたね。
シングルマザー、働く女性、障がい者、アルコール依存症といったさまざま人に囲まれた僕の原体験。だから、運や立場に左右されない、「だれも」が幸福を追求できる社会を提唱するんです。人を幸福にできると考えるのは傲慢です。僕にあるのは、幸せになりたくて必死に生きる人間像。幸せになろうともがく人たちのために、どんなに不運でも、夢や仕事にチャレンジできるための「人間の条件」を考えたかった。
東大でバンド仲間と(左端の金髪、19歳)
ラ・サールから東大へと絵に描いたようなエリートコースでしたが、同じころ、母のスナックは経営危機に陥っていました。でも危機感は薄くて。奨学金を取って大学院に進み、研究と同じぐらいバンドに熱中しました。下北沢でライブ活動をして、インディーズでテープも売ってましたよ。
そんな日常が止まるのが、97年、博士課程1年生の時です。帰宅すると、24件、留守電が入っていて、23件目に「助けて、殺される」という母の声がありました。慌てて久留米に帰ると、あったのは借金の山でした。気が遠くなりましたが、ヤミ金分の250万円を、母の知人が僕に貸してくれ、急場をしのぐことができました。
ところが、僕はその恩人に向かってこう言ったんです。「俺は返さんでよかとばい。借用証書まだ書いとらんもん。ばってん、かわいそうやけん書いてやるたい」。……今でも申し訳なくて夢に見ます。暴言の理由、それは、屈辱です。救済は人間の心に屈辱を刻み込む。救済ではなく、みんなが権利を行使する社会。「尊厳ある生活保障」の原点はまさにこの苦い体験にあったのです。
――そのための財源が消費税で、増税を厭わないことが、井手批判の中核になっています。消費税の逆進性も批判の論拠。成長が望めない以上、分配に公平性を持たせたとしても収入に多くを望めない。その状況のなか、消費増税は受け入れられますか。
井手 有権者の意識は変化しています。17年、19年の選挙も、消費増税を訴えた与党が圧勝しました。安倍政権でさえ、幼保の無償化、低所得層の大学無償化に舵を切ったのです。最近は、公明や維新も財源を問うようになっています。反消費税を掲げて選挙に圧勝した土井たか子さんの「山が動いたシンドローム」はもう終わらせるべき。取った税をどう使うかがカギです。
逆進性だけの理由で反消費税を訴える人は、絶望の淵に立つ人を見殺しにするようなものだと思います。20数年前、わが家は貧乏のドン底でしたが、消費税があがるかわりに大学が無償になるのなら、母も僕も喜んで賛成したはずですから。もちろん、コロナ禍に苦しむ現在は、あらゆる手を尽くして危機を乗り切るべきです。でも、れいわ新選組のような、MMTに乗った「消費税ゼロ」も、野党共闘のような「5%減税」も、僕は反対です。
消費税を減税すれば、貧しい人よりも、贅沢品を買う富裕層のほうに多くのお金が戻ります。それに、一度減税すると当分税率は戻せない。そんな政策をやるくらいなら、この1、2年は国債に頼りつつ、貧しい人への現金給付、中間層への所得税減税、富裕層と大企業への増税を組み合わせて、消費税はイジらない政策を僕は選ぶ。
コロナ後は「頼りあえる社会」の出番です。消費税に富裕層向けの税を組み合わせてもいいでしょう。住宅手当を創設したり、スマート消費税のように、贅沢品や環境破壊的な消費に高い税率を課すのも一案です。大切なのはできない理由ではなく、できるための方法に知恵をしぼることです。
僕は、バラマキの社会ではなく、喜びと痛みを分かちあう社会を子どもたちに残したい。共にあるという感情が満ちあふれ、自分の幸せと仲間の幸せを調和させようと汗をかく。そんな国なら、だれだって心から愛したくなるはず。僕はみなが人間を愛し、国を愛する、そんな社会をめざしたい。
*
井手氏は自らを「必要原理主義者」と呼ぶ
井手氏の最新作のタイトルは『欲望の経済を終わらせる』(インターナショナル新書)である。欲望の経済とは、市場原理主義に基づく経済システムであり、それが成長をもたらすというのが資本主義の常識だったが、そのシステムが破綻していると言う。
井手氏は「必要原理主義者」と自らを呼ぶ。資本主義には「欲望(wants)」と「必要(needs)」がある。見せびらかすための消費が、欲望を再生産して成長を支えた。しかし、これからは欲望ではなく、生きて行くための必要を、「公・共・私」の組み合わせのなかで充実させることが、国と地域と個人の豊かさにつながると訴える。
成長しない現実を踏まえ、今、井手理論に既存政党が「解」を求めて行列を成している。資本主義の根幹を見直す、消費増税を含む井手氏の提案が、受け入れられるかどうか。最後は政治家の「腹のくくり方」だろう。