病める世相の心療内科㊻

人類の海馬が危うくなっている

2020年11月号 LIFE [病める世相の心療内科㊻]
by 遠山高史(精神科医)

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絵/浅野照子(詩画家)

ストレスフルな環境から逃げ出せないことは動物にとって最大ともいえるストレスとなる。ストレスから身を護るため放出される体内物質は、ストレスが持続することで体内に蓄積されると逆に毒性を帯び、例えば海馬などの脳の情報処理系にアポトーシスを誘導してしまう。

アポトーシスとは、細胞が自らを破壊してしまう働きを言い、多細胞生物の細胞にはすべてそなわっている自死のプログラムである。それにより小さくなった海馬は情報処理能力が低下し、些細な事柄にもおびえやすくなり、その動物に一種のうつ状態を招き寄せる。やがて餌も食べなくなり、自死に近い状態となり死亡することもある。人間もこの例外ではない。新型コロナで生じたストレスフルな環境からなかなか抜け出せず、人類の海馬は危うくなっているかもしれない。

テレワークなら嫌な上司から離れられ、のびのび仕事ができるというが、本当だろうか。少なくとも妻たちは家事や育児に夫への気遣いも加わり、ストレスが増大しかねない状況となっている。また、職種や地位にもよるが、テレワークでむしろ拘束時間が増えている人たちがいる。パソコンの前に釘付けになることで、わかってはいても運動不足になりやすい。テレビ会議で決められることは大味になりやすく、やはり細部の詰めはできない。いざ出社しても同僚はまばらにしか出勤しておらず、直接の話ができない。事務担当に有休の取り扱いについて相談に行くと部屋に入れてもらえず、入り口にメールでお願いしますと張ってある。コロナは人々に離散的生活を強いている。わずらわしい関係が減って気楽だというのは錯覚で、GPSのついたトラックや飛行機のようにきっちり管理されている。離散的なのにやはり逃げ出せないのだ。

「You raise me up」という美しい歌がある。シークレット・ガーデンという北欧の2人のミュージシャンが1996年にリリースした歌である。様々な困難に心が折れそうになった時でも君がそばにいるおかげで強くなり、乗り越えて行ける、というシンプルな内容の歌詞であるが、印象的な旋律が深く私たちの情緒に染み入る名曲である。この歌は愛する者と密になれという。ストレスフルな環境から逃げ出せなくても、心の通いあう相手とともにいれば耐えられる。理屈抜きでこの歌が心を打つのは、生き物のありようそのものを歌っているからに違いない。

仕事柄、自殺に遭遇することは珍しくない。散々死にたいと訴えていても、死なない人もいるが、死にたいとは一言も言わなかった人がある日突然自殺し、その報に驚かされることもある。自殺のきっかけは人によって違うように見えるが、人が自死を実行するのは、その背後に愛する人あるいは信頼する人との関係の希薄化、喪失が存在することが見て取れる。経験上この例外はないと私は思っている。

アポトーシスが起きている細胞も、周囲の細部との関係の切断が顕微鏡下で見て取れる。コロナ時代の人々の関係は、電子信号によってのみ媒介され、関係の希薄化は避けられない。これから自殺は増えると危惧している。ただマーティン・ハーケンスというオランダ人の歌手が、街角で「You raise me up」を歌う動画を見た。大勢の街行く人が立ち止まりその歌声に聴き惚れ、勇気づけられているようであった。そのような役割を私も担っていきたい。

著者プロフィール

遠山高史

精神科医

   

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