追悼「李登輝元総統を偲ぶ」by 元「日台交流協会」台北事務所長 池田維

「まさかの時の友は真の友」

2020年10月号 POLITICS [台湾民主化への道]
by 池田維

  • はてなブックマークに追加

写真は2012年当時

Photo: AP/アフロ

台湾の李登輝元総統が逝去(享年97)された。90年代から始まった台湾内部の民主化への動きと日台間の友好・親善の動きは、李登輝氏というかけがえのない政治指導者の存在を抜きにしては語ることができない。 私が「日本台湾交流協会」(実質的に大使館に相当)の台北事務所代表として、台湾で勤務したのは2005年から08年までのことである。そのころ李登輝氏は12年間(1988~2000年)務めた総統職をすでに退任し、総統は陳水扁氏(民進党)に交代していた。

私が台北に赴任して2年後、李氏は総統退任後第3回目の日本訪問を行った。それは「奥の細道」を探訪する文化・学術を主たる目的とした旅であった。それまでの2回の訪日と異なり、その時はじめて李氏は首都東京の地を訪れ、聴衆に対し講演し、記者会見を行った。また、戦時中にフィリピンで戦死した兄が祀られている靖国神社を参拝した。

李登輝氏と筆者の池田維氏(2005年)

中国はそれまでと同様、いろいろのレベルで李氏の訪日は「台湾独立という政治活動のために舞台を提供するもの」として、日本側に執拗に抗議した。これに対し、日本側は、李氏はすでに総統を辞めて何年にもなる一私人であり、日本文化に精通しており、「台湾独立」という政治活動のために訪日したのではないとして、中国の主張を一蹴した。靖国神社参拝については、日本は自由で民主的な国であるから、李氏を受け入れた以上、希望されるところへ行かれるのは当然である、と反論した。なお、李氏は靖国参拝については、「自分個人と家族の事情によるもので、政治や歴史とは一切関係はない」との声明を出したうえで参拝した。皮肉にも中国が李登輝氏の訪日に反対すればするほど、そのことは台湾内でも報道され、同氏の評価を高める結果を招いてきた、といえよう。その後、李氏は、さらに6回の訪日を行い、日本訪問がルーティーン化した。通常、訪問地をどこにするか、そこで何を行うか、などはいろいろの外交的配慮に基づき決定されるものだ。とくに、東京に入ることもできず、記者会見も許されず、当然、靖国参拝がかなわなかった第1回と第2回の訪問についての同氏のフラストレーションの高さについては容易に想像がつく。

「22歳まで日本人だったんだ」

李氏と語らう池田氏(2005年、台北市・翆山荘にて)

私が李氏と会見するため、あるいは日本からの出張客を紹介したりするため、同人の住居のある台北郊外の翆山荘を訪れたことは何度あっただろう。李登輝氏は極めて流暢な日本語で――やや旧制高校生の話すような日本語で、直截に、その時々の日台間の問題を情熱をもって語った。「自分は22歳まで日本人だったんだ」という言葉を何度も聞かされたものだ。

台北市で催された「天皇誕生日レセプション」にて(2006年)

李登輝氏が総統になっていなければ、台湾の民主化への過程はこれほど順調には進んでいなかっただろう。それは今日、多くの台湾人の一致した見方となっている。李登輝氏の最大の功績は国民党一党独裁下にあった台湾を民主化に導くため、未曽有の困難な道筋を切り開いたことである。言論、集会、結社の自由の保障、複数政党の設立、憲法改正などを、いくつもの抵抗を排しながら進めた。一例として、かつて中国大陸で選出され、その後、蒋介石とともに台湾に移り住んだ「外省人」の「万年国会議員」たちを辞めさせ、国会議員の全面改選を行った。そのために、李氏がいかに苦労したかについては、台湾ではいまだに多くの人々の語り草になっている。李氏は「一滴の血を流すことなく」、台湾の民主化への道を切り開いた、と言われるゆえんだ。

第二次大戦中、京都帝国大学で農業経済を勉強した「本省人」の李登輝氏を87年、テクノクラートとして副総統に抜擢したのは蒋経国総統だ。88年、李氏は憲法上の規定により、蒋経国急死のあと総統に就任した。そして、その8年後の96年には、台湾史上はじめて直接投票による民主的選挙を行うことによって、総統(国民党)に選ばれた。この民主的選挙自体、台湾における新しい民主化の動きを、内外に如実に知らしめた事件となった。

この選挙を控え、江沢民下の中国はミサイルを台湾周辺海域に発射して台湾を威嚇し、いわゆる「台湾海峡危機」に発展した。その時、米国が第7艦隊の2隻の空母を台湾海峡に急派したため、中国はなすすべなく後退したことがあった。中国があの時、台湾に対しあのような挙に出たのは、台湾が内部で民主的選挙を行い、「一つの中国」の大枠から離れた独自の動きをしつつある、と受け止めたからにちがいない。

「後藤新平は偉大な導きの師」

李氏の「台湾独立」についての考え方はそれほど単純なものではない。李登輝氏が総統時代の終わりごろに出版した書物『台湾の主張』の中には、中国共産党に対する極めて強い警戒感を抱きながらも次のように述べる現実的な政治指導者の姿がある。「今現在の『台湾のアイデンティティ』とは何か。……すぐに『台湾独立』という声が聞こえてきそうだが、台湾の国際的な地位をはっきりさせる必要があることは確かでも、私は『独立』に拘泥する気はない。現在は『中華民国在台湾』あるいは『台湾の中華民国』を確実なものにすることである」――。総統退任の直前、李氏は政府部内に委員会を作り、中台関係のあるべき姿について諮問した。その時の結論が中台関係は「特殊な国と国の関係であり、一国内部の事情ではない」というものである。この時の委員会の責任者の一人が、現総統・蔡英文氏(民進党)だ。今日、蔡英文総統は台湾をすでに主権の確立した独立国家であるとの立場を堅持しつつ、同時に中国をいたずらに刺激・挑発することのないよう、中国と平和裏に対等な対話・交流を行う「現状維持路線」をとる、と公言している。

李登輝総統時代になって、台湾での民主化が進むとともに、台湾の人たちは日本植民地時代の50年間についても自由にものを言えるようになった。想えば、私が60年代前半に外交官補として、台北で研修時代を送っていた頃の台湾は、国民党による一党独裁の戒厳令下にあり、公の場で日本語を使用することが禁止されていた。この戒厳令は38年間という長期にわたったが、バスに乗れば「ここでは国家の大事を論ずるな」というスローガンが掛かっていたものだ。

日本統治時代の評価を根本的に変えた中学生向けの教科書『認識台湾』(歴史編)が出版されたのは97年のことだ。この教科書は、李登輝総統の直接の指示により出版されたが、今日でも、台湾における歴史教科書の原点となっている。それ以前の蒋介石時代の教科書が日本統治時代を「残虐統治の50年間」とごく簡単に片づけていたのに対し、この教科書は、日本統治にはプラス・マイナスがあったとしつつも、全体として日本統治はその後の台湾の近代化の基礎を作ったものとして肯定的に評価している。鉄道、道路、港湾、農業灌漑用水などインフラストラクチャーの建設、治安の維持、初等義務教育の普及、衛生観念の向上などがそれである。

李氏自身、07年の訪日の際に行った講演の中で、台湾統治初期の総督府の民政局長として働いた後藤新平について「当時、匪賊が横行し、疫病の蔓延する未開発地域だった台湾において、近代化の基礎を築き上げた。……後藤新平は私にとって、偉大な精神的な導きの師である」と述べている。 この教科書を学んだ若い世代のなかに、日本に対する親近感をもち、自分は台湾人であり、中国人ではない、との「台湾人意識」を持つ人の数が着実に増えていることが、アンケートから読み取ることができる。

「武士道」「大和魂」を高く称賛

「台湾人意識」の強まりは、同時に日本人に対する親近感の増大に深く結びついている。東日本大震災の際に、2300万人の台湾の市民たちから寄せられた義援金は250億円に達し、一国当たり最大の規模となった。しかもそれは台湾当局が集めたものではなく、草の根の人々からの浄財だった。外交関係断絶(1972年)以来、その時ほど日本人は台湾の存在を身近に感じたことはなかっただろう。「まさかの時の友は真の友」である。

李氏は日本文化の伝統や歴史に明るく、なかでも「武士道」「大和魂」などの「日本精神」を高く称賛している。ただし、それら文章は一方的な日本賛美に終わることなく、そのような伝統をもつ日本人に誇りと自信を持ってもらいたい、との叱咤激励の意味を持つものでもある。さらには「日本は台湾との関係をもっと大事にしてほしい」との警鐘にもなっている。日本との緊密で強い協力関係があってこそ、同氏の言う「台湾人として生まれた悲哀」から脱し、「台湾人として生まれた幸福」が到来するということになる。

台湾の人々は党派を超えて、今後ともさらに明瞭なみずからの帰属(アイデンティティー)を模索しつつ、同時に台湾についての一層の国際的認知を求め続けていくだろう。

多くの課題の中でも、とりあえず日本が協力できる道はなにか。まず、日台間の人的交流のレベルを上げることを考えてはどうか。それは、最近、米国上下両院で「台湾旅行法」が採択され、米台間の人的交流のレベルが引き上げられたことにも匹敵する。自由、民主、人権の諸価値を共有する日台間において、よりハイレベルの交流が広く行われることは、台湾にとっても、日本にとっても極めて望ましいことである。さらに、台湾の中国への経済依存度が低下する方向に向け、TPP(アジア太平洋経済連携協定)への台湾の加入を日本が主導することは、現在台湾が有する経済規模から見て、アジア太平洋の国々にとっても必要不可欠なことと思われる。今日、台湾の有する民主化のレベルと経済規模はアジア・太平洋においてすでに無視しえない、重要な資産となっている。

台湾民主化のいしずえを築いた李登輝氏の功績を振り返る時、1987年、蒋経国総統が李氏を副総統に任命した運命的決断に思いをいたさざるを得ない。台湾を統治していくうえで、李氏こそ最も適切な人物であると見た蒋経国の慧眼には感服させられる。李登輝元総統は、私の心の内にあって、台湾を民主化に導いたすぐれて現実的、かつ、偉大な指導者であり続けるにちがいない。

著者プロフィール

池田維(いけだただし)

1939年生まれ。外務省アジア局長、官房長、オランダ、ブラジル両特命全権大使、「日台交流協会」台北事務所長などを歴任

   

  • はてなブックマークに追加