病める世相の心療内科㊺

「老後を考えない」高齢者の逞しさ

2020年10月号 LIFE [病める世相の心療内科㊺]
by 遠山高史(精神科医)

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絵/浅野照子(詩画家)

クリニックに来る最高齢は97歳の女性である。シルバーカーなど頼らず、杖をついて一人でやってくる。むろん認知症ではなく、家族からのストレスで眠れないと訴える。亭主はパールハーバーにも行った軍人だったが、戦後、自転車屋をやり始めた。しかし商売は下手で、40年も前に借金を残して死に、女手一つで5人の子供を育て上げた。たくさんの孫もいるが、のんびり暮らすわけにもいかず、次女の家におかせてもらっているという。もらえる年金はわずかで一人暮らしはできない。長男には早く死なれ、長女とはそりが合わず交流はない。次男はギャンブル好きの怠け者で妻に逃げられ、とても母親を養う余裕はない。頼った次女は肺がんで寝込むことが多く、亭主はアル中で、酔っぱらうと「くそばばー、早く死ね」と平気で言うという。

「もうすぐ100歳。立派ですね」と、漠然とした励ましをしてみるが「長く生きても一つもいいことはなかった」と、ぼそっと言う。彼女は少なくとも85歳までビルの掃除の仕事をしていた。その後も息子の世話をし、息子の子供への仕送りもしていた。次女の家では、病弱な次女に代わって家事をしてきたが、さすがにこの頃は体が動かない。次女の亭主に頼むことが多くなったが、いちいちイヤミを言われるという。

彼女ほどではないが、もう少し若い高齢者からの相談はたくさんある。夜昼がわからず昼でも雨戸を閉めてしまい、おむつをはぎ取りあたりかまわず放尿する80歳の認知症の夫についての治療相談。40を過ぎて突然家に戻ってきて居座るようになった55歳の息子と過ごすのが苦痛で知人宅を訪れるが、コロナでそれもできずストレスで髪の毛が抜けた85歳の女性。ネットでいろいろな物を買い込み、パチンコ代をよこせと79歳の親に迫る50歳で体重100キロの娘についての相談。90歳の夫が女を連れ込んでいると、しょっちゅう110番し、警察から病院で相談するよう言われてやってくる87歳の嫉妬妄想の活発な女性。自分が働けないのは、お前の育て方が悪かったせいだと暴力をふるい、両親を家から追い出してしまった47歳の引きこもりの息子について、障害者年金をもらえないかと聞きにきた80歳の父親。こういった人々の相談治療を請け負ってもいるのであるが、期待に応えられるとは限らない。人は老後の悠々自適を望むかもしれない。しかし、それは必ずしもたやすいことではなさそうである。

97歳の女性に聞く。あなたの人生を一言で例えるなら、なんでしょうか。小柄だが、艶のあるほほの丸顔のかわいい、10日後には98歳になる女性はぶっきらぼうに「自転車だね」と言ってのけた。自転車?「止まると倒れるからね、動き続けていなくてはならないよ」。老後も走り続けてきたということですか?「老後なんてこと考えたこともないよ」

人生を自転車に例えるのは秀逸である。自転車はバックもできず、ただ前進あるのみである。悠々自適を望み、スピードを落とせば、思わぬ石に躓きやすくなる。ここでは述べないが、そういった事例も数多く私は知っている。人はひたすら前進し続けねばならないのかもしれない。それが生き物の宿命である。彼女は言う。「あと20歳若ければ、あんたにデートに誘われたいね」。その言葉に20歳年下の私はエネルギーをもらい、また人生の自転車をこぎ続けようと思う。

編集部よりお知らせ

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『シン・サラリーマンの心療内科〜心が折れた人はどう立ち直るか』(遠山 高史 (著)/プレジデント社/1400円+税)

著者プロフィール

遠山高史

精神科医

   

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