特別寄稿 皇族妃の日記にみるスペイン風邪の惨禍

by 小田部雄次 静岡福祉大学名誉教授

2020年9月号 LIFE
by 小田部雄次(静岡福祉大学名誉教授)

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100年前のパンデミックに関心が集まっている。1919年から21年までの3年間で、推定死亡者が世界で5千万人、日本で45万人といわれるスペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)だ。新型コロナでの死亡者は8月7日段階で世界で71万人、日本で1034人であり、これと比較してもかなりの犠牲者を生んだパンデミックであったことがわかる。

にもかかわらず、スペイン風邪についての研究は少ない。速水融の『大正デモグラフィ』(小嶋美代子と共著)と『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』が主な研究といえる。当時の内務省がまとめた『流行性感冒』も貴重な記録である。従来、話題になったこの時期の主なテーマは14年からの第一次世界大戦、18年の米騒動やシベリア出兵であった。皇室に関しても、21年の皇太子の渡欧と皇太子妃の色覚問題などに関心が集まった。このため皇室とスペイン風邪との関わりが言及されることはあまりなかった。

しかし、コロナが深刻化し、歴史におけるパンデミックが注目され、皇室と100年前のスペイン風邪との関係への関心も高まった。すでに、皇族の竹田宮恒久王の急逝、皇位継承第二位であった淳宮雍仁(のち秩父宮)の感染などが、知られていた。また、東宮であった昭和天皇も罹患したといわれる。

私は旧皇族であった梨本宮守正王の妃である梨本宮妃伊都子の77年間の日記を整理しているところでもあり、スペイン風邪当時の記事をまとめてみた。驚くべきことに、19年から21年の日記には、伊都子の血縁である鍋島家や、夫である梨本宮守正王の血縁である人々の死亡記事が数多くつづられていた。もちろん、その死亡記事がすべてスペイン風邪によるものと断定することはできない。そのなかから、スペイン風邪と判断できる記事をいくつか紹介する。

弟、妹、父を亡くす

まず19年1月17日に、広島の浅野侯爵家に嫁いでいた寧子(伏見宮博恭王第1女子)が亡くなった。「流行性感冒のため御逝去」と伊都子は書いている。このころ伊都子は長女方子(まさこ)を朝鮮王世子に嫁がせるための準備を進めていた。ところが、式前日の1月21日、朝鮮の李太王(高宗)が急逝し、式は延期。当時、日本側の毒殺説が流布したが、脳出血説もあり、近年、医療事故説などもある。時期的にあるいはスペイン風邪ではなかったかとの推測もなしうる興味深い事件である。

4月20日の日記には「竹田宮急性肺炎にて重体のよし」とある。竹田宮は恒久王、北白川宮能久親王の長男であり、妃は明治天皇六女の昌子内親王だった。竹田宮は23日に危篤、薨去。24日「竹田宮へ伺ひ御遺骸をみあげかへる」とある。伊都子は罹患した竹田宮の遺骸に対面していたのだ。

6月25日に地久節(皇后誕生日)があり、伊都子は午前11時参内し、「皇后陛下に拝謁、立食を賜はり」、12時20分退出した。この日5時から鍋島家にて「貞次郎帰朝男爵拝受の披露会」があり、「西洋食、親戚相よりにぎにぎしき事なり、講談あり」と書いた。第一次世界大戦で地中海方面に遠征していた弟の鍋島貞次郎が18日に凱旋し、男爵となったのである。その直次郎も翌20年1月17日、流感で急逝した。

一方、19年10月25日、伊都子は守正王が赴任先の遼陽で発熱したことを知る。28日には「又々御熱上り気管支炎併発のよし、心配なり」と記した。31日、雨ながら観兵式が予定通り行われ、午後は「御内儀にて御祝宴、四時退出す」とある。観兵式は天長節祝日、1月の陸軍始などで行われた陸軍部隊の閲兵式である。この日は大正天皇の2カ月遅れの誕生日(天長節祝日)であった。流行性感冒が広がる雨のなか、大々的な軍事パレードを行ったのである。宴会には伊都子がひとりで出た。この後、守正王は遼陽から大連を経由して帰国し、夫婦で大磯の別邸で静養した。

20年1月17日、18日の両日、伊都子は方子(のち李方子)と規子の娘二人や使用人たちと予防注射をした。19日、久邇宮朝彦親王の三女で、守正王の姉にあたる池田安喜子とその長男の禎政が流感でともに亡くなった。同じ19日には鍋島直大三女で伊都子の妹の牧野茂子も発熱し、20日に亡くなった。さらにこの20日、池田家へ出かけた久邇宮朝彦親王五女の竹内絢子が感染したが、快復した。この年4月、李太王の急逝で延期となっていた長女方子の結婚式が日本でなされる。感染拡大のなか、朝鮮王世子の李垠に嫁いだのである。

翌21年1月15日、伊都子は感冒を患った。不安になったのだろう、2月8日「時節柄故、直に村地に電話をかけたる」とある。9日午前中に村地が診察、「気管支カタルをおこし、流行性感冒ゆへ用心すべしとの事」とある。「村地」は村地長孝で、伊都子の主治医、先に罹患した淳宮の侍医でもあった。

ところが、3月20日、父の鍋島直大が肺炎を起こす。直大が亡くなったのは6月18日、伊都子の実家である鍋島家だけでも3名が亡くなったのである。この年10月、観兵式は行われたが、宴会が「流行病のため」中止となった。

概ね行われた宮中行事

20年の観兵式宴会は中止になったが、19年から21年にかけて宮中儀式はおおむね行われ伊都子も参列した。ただ、当時の皇后がハンセン病患者の救済に尽力したことは知られるが、スペイン風邪の罹患者たちを見舞ったという記録はみない。皇室に限らず、多くの国民が「悪性だが、しょせんは風邪」程度の認識でしかなかったからではないか。風邪の感染見舞いに皇室がわざわざ病棟を訪問した話は聞かない。冠婚葬祭や宮中行事の中止が少なかったことからも「しょせんは風邪」という傾向を感じる。しかし、23年の関東大震災では、皇后は静養先の日光から直接に被災地に向かい、積極的に人々を励ました。社会的弱者となった国民によりそう姿勢は、大正時代の皇室にとっても重要なことだった。

現在、コロナのため皇室と国民とが直接触れ合う機会がない。このままなにもしなければ国民の心は離れてゆくだろう。悩ましい問題である。

(敬称略)

著者プロフィール
小田部雄次

小田部雄次

静岡福祉大学名誉教授

1952年東京生まれ、茨城県水戸市で育つ。1985年立教大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。立教大学非常勤講師、国立国会図書館海外事情調査局非常勤職員などを経て、1991年静岡精華短期大学国際文化学科助教授、2002年ビジネス情報学科教授、2004年静岡福祉大学 社会福祉学部教授 。2018年、静岡福祉大学名誉教授。

   

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