メメント・モリ〈死を思え〉の声

パンデミックが映す危機の時代の〈いのち〉と〈美〉

2020年6月号 LIFE [美の来歴]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)

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ピーテル・ブリューゲル「死の勝利」(1562年頃)プラド美術館蔵

ルネサンス盛期のフィレンツェを襲ったペストの猛威のもと、猖獗(しようけつ)を極める都市を逃れた10人の若い男女が美しい田園の別荘にこもって10日間、思い思いの恋愛譚やユーモラスな艶笑話を披露する。

ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』はそんな、危機のなかの人間のアイロニーをたたえた物語である。

1347年から1352年にかけて、地中海一帯を襲ったペストは世界史で2度目の大規模な流行となり、欧州だけで全人口の30~40%にあたる2500万人の死者を出した。イタリアの都市国家で最大の7万5千人だったフィレンツェの人口は半減した。

「快癒する者はまれであったばかりでなく、ほとんど全部の者が、兆候があらわれてから三日以内に、発熱もせず、別に変わったこともなく、死んだ」と『デカメロン』は記している(柏熊逹生訳)。

フィレツェの城内だけで10万人以上の命を奪った惨禍への無常の嘆きのあとで、『デカメロン』の第1話の語り手の女性、パンピネアは酸鼻な都市からの脱出と、田園での若い生命の謳歌を語りはじめる。

〈道理の垣根をこえないように心がけながら、精一杯はしゃぎまわり、陽気にふるまい、逸楽に興ずることが何よりだと存じます。そこでは小鳥のさえずり歌うのが聞こえ、丘や野原が緑に色づき、穀類で隙間のない畑が海原のごとく波打ち、色とりどりの木立がしげり、大空が果てしなく広がっているのが目にはいります〉

現実が過酷であればそれだけ、そこから逃れてあるわが身の僥倖(ぎようこう)を歓び、楽しもうという「刹那の喜びと享楽」へ向かって、パンピネアは「今日はここ、明日はかしこと、この時世にできるだけの愉悦や歓楽にふけること」を提案する。

生き残って田園に逃れた若い男女が絶望や神罰への恐れに慄くのではなく、現世の悦楽に救済を求めるのがこの物語の要諦なのである。

歴史家のヤーコプ・ブルクハルトは『イタリア・ルネサンスの文化』(新井靖一訳)のなかで、次のように述べている。

〈この伝染病で人口が減れば物価全般が値下がりするはずだと予想していたのに、逆に生活必需品や労賃が二倍にはねあがったこと、初めのうち庶民はもう全然働こうとはせず、ひたすら安逸に暮らそうとしたこと、ことに下男下女は市中で高額の給料を出さなければ得られなかったこと、農夫は最上の土地でなければ耕そうとせず、痩せた土地はこれを棄てて顧みなかったこと等々……〉

メディチ家という僭主を頂き、現世肯定のルネサンス文化が花咲く都市国家フィレンツェは、未曽有の惨事への対応に追われ、カトリックの神罰主義に立ち返って人々が蹲(うずくま)る時間的な余裕さえなかったのであろう。

1347年から数年にわたるペスト禍は欧州全体の人口のおよそ3分の1を奪った。やがて、それが10年余りの間隔で繰り返されるに至って、階層を超えた大量死が生む人口構造の歪みが西欧中世の人々の生命感を厚い雲で覆う。

W・H・マクニールが『疫病と世界史』でその価値観の転換点を指摘している。

〈1360年代、70年代とペストが再来するに及んで、事情は一変する。農耕その他単純労働の不足が広く痛感されるようになったのだ。ピラミッド型をなして構成されていた社会的経済的秩序が、ヨーロッパの様々な場所で様々に変化した。そして、思想と感情の暗い空気が、ペストそのものと同じように慢性的かつ不可避的に広がった。一言にして言えば、ヨーロッパは新しい時代に入ったのだ〉(佐々木昭夫訳)

マクニールがここで「思想と感情の暗い空気」と呼ぶのは、身分を問わず人々に広く浸透してゆく〈メメント・モリ〉、つまり「死を思え」という普遍的な感情にほかならない。

〈メメント・モリ〉の思想は、ペストのパンデミックを経験した中世社会に「死の舞踏」という固有の造形の様式を生んだ。

骸骨の姿をした〈死〉の表象が楽器やツルハシ、砂時計などの形を伴った「死の舞踏」の意匠として、木版画や壁画などに各地で頻繁に描かれた。「気まぐれで説明のつかぬ破滅をも視野に入れた世界観だけが、ペストの冷厳な現実と両立しえた」というマクニールの指摘は、やがて人々のカトリック教会に対する信仰の基盤を揺るがす、大きな歴史の転換の要因になってゆくのである。

「15世紀に於ける程強く徹底的に、死の思想が人々の胸深く食い込んだ時代は他にない。絶えず『死を思え』という声が生活の中に響いていた」。歴史家のヨハン・ホイジンガは『中世の秋』のなかでこう述べている(兼岩正夫・里見元一郎訳)。

フランドルの画家、ピーテル・ブリューゲルが「死の勝利」を描くのは1562年ごろである。中世の村落の平和な日常に対する優しくも辛辣なまなざしを通して、画家は封建的な共同体の民俗を細密に描いたが、2年ほどのイタリア滞在が聖書や人間と社会を巡る寓意画の世界へ眼を開くきっかけとなった。当時、「死の舞踏」の絵画様式はイタリアなど欧州各地で隆盛を極めていた。

平和で微笑ましいブリューゲルの作品から見れば、「死の勝利」の画面はおどろおどろしい。遠景では火山が噴火し、重く雲が垂れこめた空の下で海上の船が炎上している。丘の上では斬首されている男がいる。前景はさらに断末魔の気配がある。

骸骨が隊列を組んだ〈死〉の軍勢が人々を襲って、斬首や絞首、火刑などで次々と殺している。手前の王は甲冑に身を包んだまま死に絶え、乱れた食卓では着飾った貴婦人が骸骨に凌辱されている。それでもまだ、片隅で楽器を奏でながら愛を囁くカップルがいるが、そこにも骸骨が背後から忍び寄る。

パンデミックは20世紀の芸術家の美意識と生死観にも重要なモチーフとなった。

医療や公衆衛生の水準の向上で長命化が進むのに伴い、突然襲う疫病の災いは新たな〈メメント・モリ〉の思想を深く人間に刻んで、近代人の「生」と「死」のかたちにひときわ鋭い陰影をもたらしたからである。

トーマス・マンが小説『ヴェニスに死す』を発表したのは1912年である。2年後にサラエボでオーストリア皇太子が暗殺、第1次世界大戦へ欧州に戦雲が広がっていた。

〈リドに滞在してから四週間目に、グスタアフ・フォン・エッシェンバッハは、外界についていくつかうすきみわるいことを知覚した。第一にかれには、季節が進むにつれて、このホテルの客の出入が、ふえるよりもむしろへってゆくように思われた。そしてことに、ドイツ語がかれのまわりで涸れて、音をひそめてゆくように思われた〉(実吉捷郎訳)

単身でヴェニスに保養にやってきた初老の主人公はドイツの著名な作家である。リドの高級ホテルで同宿するポーランド貴族の家族に馴染むうちに、息子の美しい少年タッジオに淡い恋心を抱いて、その姿を追うようになった。ホテルのロビーや黄昏の海辺、そしてコレラが広がり始めたヴェニスの街角で、少年と交わすまなざしだけの対話に心を躍らせた挙句、主人公はこの病で客死する。

ダーク・ボガードを主役にルキノ・ヴィスコンティが監督して1971年に公開された映画によって、その「死の舞踏」の美学は広く人口に膾炙するところだろう。

物語の通奏低音は、19世紀の初めにインドのベンガル地方で発生し、世紀末にかけてアジアから欧州各地、アフリカや北米にまで大規模な流行を繰り返したコレラ禍である。

1818年に始まるこのパンデミックについて、マクニールは「世紀半ば以後蒸気船と鉄道の速度が増すに従い、世界の主要な感染中心地のいずれから発して地球的規模で拡散するのが次第に迅速になっていった」という。トーマス・マンがここで描くのは、19世紀中に数百万の死者を出したこの疫病の波がヴェニスに達した時の荒涼たる風景である。

〈ある船頭の下ばたらきとある青物売の女との、やせおとろえた黒ずんだ死体の中に、おそるべき螺旋菌が見いだされた。この事件はひみつに付された。しかし一週間後にはそれが十件になり、二十件、三十件になって、しかもさまざまな区域に及んだ〉(同)

老いの坂道を上る主人公が美神の少年の影を追って徘徊するヴェニスの街に、甘く鼻を衝く消毒薬のにおいと疫病の感染のうわさが漂っている。噂の真偽を確かめようとエッシェンバッハがホテルや街の人々に問うても、「ただの街の清掃ですよ」とはぐらかされるばかりだ。ホテルの滞在者の数も日を追うごとに減った。それでも少年タッジオは〈美〉の化身として、浜辺や街角やホテルのロビーに揺蕩(たゆた)っている。

そしてある日の午前、その美神が波打ち際で友人たちと戯れる姿を海辺の安楽椅子から莞爾と眺めながら、エッシェンバッハはコレラで突然絶命する。

芸術家の美の理想と老い、そして死という主題の三位一体の完成形として、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』は名高い。しかしその倍音(ハーモニクス)というべき新しい「死の舞踏」の旋律が、19世紀の世界を席巻したコレラというパンデミックによって造形されているのは、深い歴史の暗喩と呼ぶべきであろう。

著者プロフィール

柴崎信三

ジャーナリスト

1946年生まれ。日本経済新聞社で文化部長、論説委員などを務めて退社後、獨協大、白百合女子大などで非常勤講師。著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)などがある。

   

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