「永田町のレジェンド」とIHI
2019年9月号
LIFE [ひとつの人生]
by 坂本讓二(東京草三会会長、株式会社IHI顧問・元副社長)
90歳になっても、なお多忙な日々を過ごし、声量も食欲も現役時代とほとんど変わらず、お元気そのものであった——。
「永田町のレジェンド」草川昭三先生が、7月17日突然亡くなった。縁あって若年の頃より先生に親しく接する機会をいただいていた私にとっては、まさしく「巨星墜つ」の思いである。
私が所属する株式会社IHIは、日本の高度成長期の1950~60年代に何度かの大型合併を繰り返しながら、今日の会社の形になった。草川先生は、その前身の一つである旧名古屋造船株式会社の出身であり、その意味で私にとって、会社の大先輩にあたる。
戦後の混乱が根強く残っていた難しい時代の造船会社の労組幹部等を歴任した先生は、その後のさまざまな経緯もあり、1970年代に国政の扉を叩くことになる。その際、躊躇していた先生の背中を強く押したのが、当時会社の総務部長であった、故・井上誠一(元IHI副社長)である。
同世代(昭和3年生まれの草川先生が1学年上)の両人は、性格は180度異なるものの、当時からなぜかとても気が合う仲良し同士だった。先生の国政進出後、井上は4年前に亡くなるまで、落選時を含め一貫して先生の強力な支援者であり続けた。一方、草川先生は長年にわたり井上の、そしてIHIの良き理解者であった。お互いの信頼関係は極めて強く、いわば肝胆相照らす盟友であった。
76年に会社に入り、総務部門に配属されて以降この分野が長かった私は、師匠である井上の傍で、いつも豪快に飲み、食べ、時として激しい議論を闘わす二人の姿を間近で見ていた。そこでモノの考え方、見方などを幅広く学んだ結果、どうにか一端の会社員に育ったことになる。
昔からモノ作り一筋で、世間的にはあまり器用な会社とは言い難かった我がIHIにとって、国政に進んだ後、国対委員長など政界の要職を歴任した草川先生の存在はとてもありがたかった。年中叱咤激励を受け、苦しい局面で、その都度、本当に貴重なアドバイスを頂戴するなど、要所要所でお助けをいただいたことは申しあげるまでもない。
草川先生が2013年に政界を引退し公明党顧問に就任してからも、国内外の複雑な政治問題等について「先生の話をぜひ定期的にお聞きしたい」という周囲の声が数多くあった。そこで地元名古屋のみならず、昨年からは東京においても「草川ファン」にお集まりいただき、2カ月ごとにタイムリーな話題の勉強会を開催して、先生に熱弁をふるっていただいていた。
たぶん今頃は、遠い空の彼方で、実はカラオケが大の苦手の盟友井上誠一を前に、分厚いステーキを食べながら、十八番の「橋」(北島三郎)を熱唱されているのではないか。合掌。