大和ハウス工業社長 芳井 敬一

「前向き人生」に損はない事業を通じて人を育てる

2018年5月号 BUSINESS [リーダーに聞く!]

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芳井 敬一 氏

芳井 敬一 氏(よしい けいいち)

大和ハウス工業社長

1958年大阪府生まれ。中央大文学部卒。大学・社会人ラグビー選手として活躍。神戸製鋼所の関連会社を経て90年大和ハウス入社。05年神戸支店建築営業所長、10年執行役員。11年取締役・海外事業部長。1年半の中国・大連勤務を経て、13年常務、16年専務、17年11月より現職。

――社長就任から半年。中期経営計画の最終年度となる今期の業績予想は売上高3兆9500億円。もうひと息で建築業界初の「4兆円」企業ですね。

芳井 当社は創業100周年を迎える2055年に売上高10兆円を目指しています。中計をやり遂げるだけでなく、長期的な成長のタネを蒔かねばなりません。

――プレッシャーを感じませんか。

芳井 4年8カ月間、大野さん(直竹前社長)の横で、みっちり仕込まれたから、何を為すべきか分かっています。

伸び盛りで最も営業が厳しい会社

――中央大学、神戸製鋼所のラガーマンとして活躍した異色のキャリアですね。

芳井 高校時代に大阪市のラグビー代表に選ばれ、全寮制の大学時代はラグビーに明け暮れました。卒業後、神戸製鋼所の物流子会社に入り、ラグビーを続けましたが、目立つ選手ではなかった。亡くなった平尾誠二さんは五つ後輩です。

――交通事故が人生の転機になった?

芳井 30歳の時、「もらい事故」に遭い、腰の骨を首に移植する大手術を受けました。8カ月も入院し、身動きができず天井ばかり見ていた。当時、貿易業務を担当し、ニューヨークに語学研修に行き、海外赴任が決まっていたのが水の泡。神戸の子会社で燻っているのは嫌でした。

――大和ハウスを選んだのは?

芳井 適性検査を受けたら営業に向いているというんです。32歳の再出発ですから、早く仕事を覚えたかった。伸び盛りで最も営業が厳しい上場会社を探していたら、入社後5年間の離職率が高いトップスリーに、当社が入っていました。面接に行ったら、その場で「いつから来る?」と言われて、絶句しました(笑)。

――すぐに仕事に慣れましたか?

芳井 倉庫や事務所や寮の建築を担当する法人営業部門に配属され、飛び込み営業に歩き回ったが、1年目の受注はゼロでした。3年目に大阪本店から神戸支店に出されたのがよかった。我が青春の神戸にはラグビー仲間がいたから、社外の人脈が広がり、営業成績も上がった。入社15年目(47歳)に神戸営業所長になった時は嬉しかったですね。入社の翌年に結婚し、家族に「中途入社だが営業所長にはなる」と約束していましたから。

――その年に初めて行われた「支店長(公募)試験」に合格して運が開けた?

芳井 実は、私は受ける気がなかった。「無理ですよ。営業所長で十分」と言ったら、当時の神戸支店長や前任の所長が「お前、つべこべ言わずに受けろ」と背中を押してくれたんです。2泊だったか3泊だったか、研修所に70~80人集まって合宿するんです。途中で半分いなくなり、まさか最後まで残るとは思わなかった。翌年、姫路支店長に昇進し、2年後に金沢支店長に異動した時、今度は経営幹部育成のための「大和ハウス塾」1期生に選ばれ、当時50歳でした。開講式で樋口(武男)会長が「ここには成績のよい人に集まってもらったが、経営幹部を約束するものではない」と、釘を刺されたのをよく覚えています。それまで会長の生の声を聞く機会がなかったから。その後、海外事業の立て直しを命じられ、中国の大連市に1年半ほど駐在しました。

――執行役員、取締役、常務、専務とトントン拍子で進み、社長になった。

芳井 執行役員になった時がいちばん強烈でした。「なんでオレが。あり得ない」と。取締役になった時も手が震えました。

物事は落ち着くところに落ち着く

――樋口会長から「逃げるなよ」と、社長就任を言い渡されたそうですね。

芳井 会長からは、偉大な創業者(故石橋信夫相談役)が常に語り続けた「企業は夢とともに伸び、人はすべて夢を求めて走り続ける」という、大和ハウスのDNAを刷り込まれました。

――会長によく叱られた?

芳井 いや、会長は叱らない。だから、なおさら恐い。会長の言葉は、野球に例えるとボールが重いんですわ。受けるミットにズシンと響く。その感触は永遠に抜けないと思います。

――32歳の遅れてきた新人が、「4兆円企業」の社長に上り詰めるのは希有も希有です。

芳井 「支店長試験を受けろ」と推薦してくれる上司がいなかったら、今の私はありません。そもそも「32歳の新人」を一から指導し、鍛えてくれる上司や同僚がいなかったら、営業所長にもなれなかったと思います。当社内では学歴や他社歴は話題にならない。やる気を出しさえすれば人事評価は平等なんです。

私は社員に繰り返し、こう言うんです。〈過去は変えることはできない。誰もタイムマシンを作れない。良くも悪くも物事は落ち着く場所に落ち着く。訴訟に負けるのも、何かに失敗して恥をかくのも一つの解決だ。命まで取られやしないからくよくよするな。人が変えられるのは未来だけ。「前向き人生に損はない」と〉

――どんなヘマをしても、前を向いて走り続けるラグビーと似ていますね。

芳井 もし、私が前の会社に残っていたら、片隅に埋もれていたでしょう。大和ハウスのいいところは、どんなエラーをしても、それは過去のできごと。その失敗を糧に、これから何をするかに期待するんです。32歳のルーキーでも頑張ったら、周りが評価して引き上げてくれる。

私は昭和38年に創業者が筆を執った『わが社の行き方』を繰り返し読んでいます。「社是」の冒頭を飾る「事業を通じて人を育てること」こそが、当社のDNAであり、他社にないいいところ。それが私を育ててくれたのです。樋口会長も「企業は常に変化しなければならない。その変化をもたらすのは人の創意・誠意・熱意だ」と語っています。

19年度からの中期経営計画には、55年度に「売上高10兆円」を目指すための、中・長期的な海外展開のロードマップを示したいと思います。今期の海外事業の売上高は2500億円に達する見込みですが、海外進出を加速するには、海外向けの人材育成が急務です。「事業を通じて人を育てる」ことこそが、創業100周年の夢を叶える、確かな道筋なのです。

(インタビュアー 本誌 宮嶋巌)

   

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