美の来歴⑤なぜ「富士」を描いたか

横山大観「海山十題」と1940年という空間

2018年5月号 LIFE
by 柴崎信三(ジャーナリスト)

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横山大観『乾坤輝く』 昭和15年(1940)足立美術館(島根県安来市)所蔵

日米開戦前夜の1940(昭和15)年11月10日。宮城(皇居)前広場に特設された式殿に天皇皇后を迎えて「紀元2600年式典」と奉祝会が開かれ、各界から5万人の参列者が集まって広場を埋め尽くした。

総力戦へ向けて国威を内外に示すため、建国神話に寄せて演出された国家的な祭典である。首相の近衛文麿と高松宮の寿詞(よごと)や奉祝詞のあと、昭和天皇が勅語を読み上げ、記念歌や舞楽が披露された。翌日の奉祝会では青空の下に設えた席に再び人々が連なり、天皇の御前で空前の壮大な祝宴を繰り広げた。

日独伊三国同盟が結ばれ、大政翼賛会が発足し、「ぜいたくは敵だ」の標語が街角に掲げられたこの年は、一方で戦時体制へ向かう社会にある種の幸福感(ユーフオリア)が広がり、官民を挙げた興奮が列島を包んだ年でもあった。

この年72歳の横山大観は、ドイツの総統ヒトラーに富士山を描いた『旭日霊峰』を寄贈するなど、美術を通して戦争翼賛に国民を動員する「彩管報国」の指導的役割を担っていた。

4月に東京・日本橋の三越と高島屋で開いた「海に因む十題」「山に因む十題」という20点の連作展は、そのような立場の大観が祖国への赤誠を国民に問いかけた一大イベントである。

日本の自然と風土を謳いあげた作品は戦争前夜の祝祭空間の下で開催前から評判となり、作品は総額50万円という破格の高値で軍需産業などがたちまち落札、開催前に完売となった。

亡き師・天心の理想

この作品にはもう一つの物語が仕組まれた。大観は売上金を陸海軍に寄付し、それによって合わせて4機の戦闘機を献納したのである。「美談」がメディアを通して国民に伝えられると、「海山十題」の評判はひときわ高まり、大観の画壇のカリスマとしての地位を確実にした。

「それ皇恩の優渥(ゆうあく)なる海山もただならず、余、三朝の恩沢を蒙り絵事に専心することここに50年。今、興亜の聖戦下に皇紀2600年の聖典に会し、彩管報国の念止み難きものあり、よって山海各十題を描きて之を世に奉ぐ」。出展のあいさつ文に大観はこう記した。

「海山十題」はその成り立ちから紛うことない戦争翼賛画であるが、あまたの同時代の画家たちが実際の戦闘場面や銃後の情景を描いたいわゆる戦争画とは、明らかな違いがある。

文字通り、日本の海と山を主題として、四季の山河や海の表情を20点の作品に造形した連作である。陰翳を深める祖国の自然の移ろいに時局の変容が映るが、戦争の現実は全く描かれていない。ただ特異なのは、「山に因む十点」のすべてが、富士山を描いていることだろう。

生涯におよそ1500点もの富士山の絵を描いたという大観は21世紀の現在も「富士山の画家」と言われる。ところがその「富士画」の半分近くが日米開戦を挟んだ7年ほどの間に集中しているのは、何故か。

若い日、「日本画」の確立を通して日本美術の正統を志しながら師の岡倉天心の蹉跌で果たせず、在野の日本美術院で辛酸の日々を送った大観は27(昭和2)年、初めて宮中の下命を受けて『朝陽霊峰』を献上した。

この作品は古来「霊峰」と仰がれてきた富士に、旭日と松林を配した3点の図像で構成されている。「国体」を視覚化して国民を美的な秩序へ統合するアイコンの効果を生んでおり、以降「富士山の画家」は帝室技芸員への推挙や第一回の文化勲章受章者に選ばれるなど、「天皇の画家」として彩管報国の旗手の道を駆け抜けるのである。

戦局が深まるとともに、政府や軍部、そして広く国民の間でも総力戦へ向かう祖国愛の象徴として、清澄で気高い「富士」への賛仰が高まっていった経緯は想像に難くない。「海山十題」の10点の富士は、戦時下の「美の共同体」が天然の風景を主題に創出した戦争画という点で、きわめて特異な絵画といえる。

水戸藩士の家に生まれて勤皇の空気に育った大観に、富士山は国粋的な美意識の表徴であるとともに、師の岡倉天心が「アジアは一つである」と謳った「不二一元」の思想に通じる精神の理想でもあった。

足立全康の蒐集の起点

天心が『東洋の理想』で説いた「アジアは一つ」はのちに、世界をひとつの屋根に束ねる「八紘一宇」の思想に転化され、アジア進出を正当化する日本軍国主義のスローガンとなった。そこでは富士山に「大東亜」の屋根という比喩が重ねられた。

40年に横山大観が「海山十題」で「富士」に託したのは、ただ戦時下の国民の愛国的な精神の動員といった動機を超えて、総力戦体制の下に志半ばで逝った師、天心の理想を問い直すことではなかったか。

日本の敗戦でGHQ(連合国軍総司令部)が占領統治に入ると、さまざまな分野で軍部に指導的立場で協力した人々に対する戦犯追及が始まった。美術の世界では洋画の藤田嗣治と日本画の横山大観がその標的だった。

最終的には二人とも戦争責任を不問とされたが、「私は日本に見捨てられた」という言葉を残してフランスへ帰化した藤田に対し、大観は戦後再び「富士山の巨匠」として復活する。

「海山十題」の20点はこうした来歴から戦後流転を重ねて、長らく行方不明だった作品が少なくない。一部が米国にまで流出したのは、戦闘機に化けた戦争翼賛画という生い立ちの禁忌が少なからず影響している。

その回収に大きな役割を果たしたのは、島根県安来市で木炭商から身を起こした実業家、足立全康が立ち上げた足立美術館の蒐集と展示である。

いまは大観の作品と美しい日本庭園で世界中から観光客を集めるこの美術館の蒐集の起点には、創設者の足立が戦後図録で見て心を奪われたという「海山十題」の富士画の一点、『雨霽(は)る』への深い愛着があった。

最後まで行方が分からなかった『海潮四題・秋』と『龍躍る』の二点が「発見」されて、幻の名画「海山十題」の20点が揃ってこの一堂に展示されたのは2004(平成16)年である。

大観は最晩年の1952(昭和27)年、84歳で描いた『或る日の太平洋』で彼方に富士を仰ぐ太平洋の荒波に一匹の龍が翻弄される姿を浮かび上がらせた。戦後の冷戦下の日本の運命を問うかのようなこの作品でも、悠久の「富士」は新しい時代の背景として、あたかも黙示録のように遠景に姿をのぞかせている。

著者プロフィール
柴崎信三

柴崎信三

ジャーナリスト

1946年生まれ。日本経済新聞社で文化部長、論説委員などを務めて退社後、獨協大、白百合女子大などで非常勤講師。著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)などがある。

   

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