朝日新聞の「闇将軍」が居座る香雪美術館

2018年2月号 BUSINESS

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朝日新聞の渡辺雅隆社長

相談役や顧問による経営支配を「老害」と厳しく糾弾する朝日新聞だが、驚くことに当の同社で老害がまかり通る。内海紀雄(77)、公益財団法人の香雪美術館常務理事。朝日新聞社の渡辺雅隆社長の後見人である。

朝日新聞社創業者の村山龍平は明治の御代に神戸・御影に5千坪を超える屋敷を構えた。鬱蒼と茂る木々の向こうに、今は重要文化財に指定されている和洋の邸宅がそびえ、同じ敷地内に龍平翁が明治、大正時代に蒐集した書画骨董を所蔵する香雪美術館がある。重要文化財19点、重要美術品22点というから、稀代の目利きだったのだろう。

由緒ある美術館の性格が大きく変わったのは、2008年のことだった。村山美知子社主の跡取りとみられた甥の恭平は、「とても社主は務まらない」(朝日OB)と言われた人物。美知子社主もその人品骨柄を憂い、当時36%余の朝日新聞社の株式を保有していたが、11%強をテレビ朝日に売却、そして10%を香雪美術館に寄付し、恭平に相続させないようにしたのである。これにより同美術館に朝日の大株主という性格が加わった。

次いで大きな変化は、朝日新聞大阪社会部OBの内海紀雄が同美術館の常務理事に就き、さらに14年の朝日の一連の騒動を経て、同じく大阪社会部出身の渡辺雅隆が朝日の社長になったことである。

内海は、病身の美知子社主が今でも所有する11%の朝日新聞社の株の議決権行使の代行も引き受けるようにもなったため、同美術館の持つ10%の株式と併せ、彼は合計21%余の朝日株を「支配」できるようになった。大株主の地位と可愛い後輩の社長――。内海は朝日を牛耳る「治天の君」となったのである。

そもそも内海は権力への執着心が尋常ではない。父朝次郎は長崎新聞を経て同盟通信の逓信省担当記者となったが、戦時中、46歳で死去。紀雄は幼少時から父の郷里である五島列島の離島、久賀島の田ノ浦地区で育ち、五島高校を経て阪大経済学部を卒業。1964年に朝日新聞社に入社したものの、松山支局員、大阪社会部長、大阪編集局長などと、その軌跡の大半は大阪本社管内だった。06年に専務・大阪代表を最後に退社し、日本高校野球連盟副会長に天下り、その後、同美術館に転じた。

いま、彼は得意の絶頂にある。

朝日のOBたちの間で渡辺の社長適格性に疑念の声があがると、内海は「渡辺君は非常によくやっている」と血相を変えて擁護し、周囲を驚かせた。昨年来、内海は渡辺のために密かに不穏分子の情報収集に動いているとされる。

もはや公私の境目も判然としなくなっているかのようだ。香雪美術館はこの3月、中之島フェスティバルタワー・ウエストに分館(中之島香雪美術館)を開館するが、その分館のコンサルタント業務を請け負ったのは系列広告代理店A社である。一見、朝日グループ内で仕事を回したように見えるが、内海紀雄の息子がA社勤務と聞けば、俄然きな臭くなる。「ノウハウはある」(浜村康弘事務局長)と強弁するが、古美術品を展示する専門の美術館を設ける知見が、はたしてA社にあるのか。いきおい内海が息子の手柄にさせたという観測が朝日関係者の間で広まっている。「費用対効果は適正だった」と浜村は言うが、内海は理事会で説明を求められるかもしれない。

(敬称略)

   

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