美の来歴③「黄金のアデーレ」流転

 グスタフ・クリムトと「黄昏のウィーン」のユダヤ人

2018年1月号 LIFE [美の来歴 第3回]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)

  • はてなブックマークに追加

「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」(1907年、ニューヨーク、ノイエ・ギャラリー)

「20世紀のモナリザ」と呼ぶ人もいる。世紀末ウィーンの画家、グスタフ・クリムトの「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」は、いま米国・ニューヨーク5番街86丁目のノイエ・ギャラリー美術館にある。

琳派を思わせる、まばゆい金色の装飾に身を包んだこの女性の肖像は「黄金のアデーレ」とも呼ばれて、20世紀初頭に描かれて以来、多くあるクリムトの女性像のなかでもとりわけ華やかな霊気を伝えてきた。

戦後は長らくウィーンのオーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ宮殿美術館)の至宝とされてきた作品が海を渡り、ニューヨークの片隅の美術館に移管されたのは2006年のことである。その流転の物語を辿るには、まずはこのモデルと画家が生きた時間に戻ってみよう。

富裕なユダヤ系銀行家の娘

クリムトは多くの同時代の女性の肖像画を描いた。製鉄業のコンツェルンを経営したカール・ウィトゲンシュタインの娘のマルガレーテ。米国メディア界で成功するピュリッツァー家に生まれ、酒造業で財を成すレーデラーに嫁いだセレーナ……。モデルの多くは19世紀末から20世紀初めにかけて、ウィーンで知られた富裕なユダヤ系一族の女性たちが占めている。

アデーレもまた、20世紀初頭のウィーンの豊かなユダヤ系銀行家の娘で、夫も精糖業を営むユダヤ系の実業家だった。

ブルク劇場などウィーンの公共建築の装飾で高い評価を得ていたクリムトは、性やエロティックな主題を金色の艶やかな造形で描き、伝統を突き抜けた新境地を開いた。古い価値観との対立が露になったのが1894年、画家が手掛けたウィーン大学の講堂の天井画に対する政府やアカデミズムの批判である。

作品を買い戻して、クリムトは美術や建築、デザインなどの分野に新しい表現を唱える「分離派」の運動を担ってゆく。それを経済的に支えたのが台頭しつつあるユダヤ系の富裕な資本家たちだった。彼らの妻や娘の肖像画はすなわち、この画家にとって重要な貢献を証した賛辞ということになる。

皇帝フランツ・ヨゼフ一世の寛容政策によって、世紀末のウィーンではユダヤ系の新興富裕層の進出が著しかった。アデーレの家はカトリックに改宗した作曲家のグスタフ・マーラーと妻のアルマ、のちにナチスの迫害をうけて南米で自死する作家のシュテファン・ツヴァイクら、ユダヤ系の芸術家たちが集うサロンであった。そのなかに人気画家のクリムトもいた。

クリムトが「黄金のアデーレ」を描いた1907年、バイエルン出身で画家志望という18歳の青年がウィーンの美術アカデミーを受験、不合格となった。若きアドルフ・ヒトラーである。

「私をひきつけたのは、いつも建物ばかりだった。何時間も私はオペラ劇場の前に立ち、何時間も議事堂に目を見張っていた。環状道路がすべて千一夜物語の魔法のように、私に働きかけた」(『わが闘争』)

ヒトラーのこの挿話は、「黄金のアデーレ」のその後の運命を暗示して象徴的である。

才能を認められないままウィーンで浮浪の日々を送った青年は、やがて軍隊に入ったのちに政界へ身を投じて新興政党のナチスの領袖に上り詰める。失意の青春の日から4半世紀後の38年、オーストリアの併合で怨念を刻んだウィーンの街をオープンカーで凱旋した時、胸中にはどんな思いが過ったのか。

クリムトの肖像画のモデルとなったアデーレは「華奢で洗練された女性だったが、偏頭痛と憂鬱症を抱え、傲岸不遜な性格の持ち主だった」と姪のマリア・アルトマンは回想している。

そのアデーレは25年に髄膜炎で死去、遺言は肖像画をベルヴェデーレ宮殿美術館に寄贈するよう求めていたが、夫のフェルディナントが所有権を主張してそのまま自宅に置かれた。

流転の始まりはナチスによるオーストリア併合である。ヒトラーのウィーン入城を前にして、ユダヤ人への迫害や追放の動きが強まると、フェルディナントはウィーン市内の自宅をそのままにしてオーストリアを脱出、チェコからスイスへ逃れた。

その結果、「黄金のアデーレ」を含めて財産の過半が自宅に残され、ほどなく占領したナチスによって没収された。

同じ時期、クリムトの少なくない作品がナチスの統治下のウィーンで没収されたが、「黄金のアデーレ」は大戦のさなかの41年、他の風景画との交換という形でナチス側からオーストリア・ギャラリーに戻された。

この間の事情は謎めくが、伝統を否定した新たな表現を「退廃芸術」として摘発するナチスの政策に照らして、華美なこの作品がふさわしくない、という判断もあったかもしれない。

ナチス略奪絵画の「奪還劇」

アデーレの夫のフェルディナントは45年に没し、作品はアデーレの遺言通り、戦後久しくウィーンのベルヴェデーレ宮殿に安住の地を得てきたが、それが再び喧騒の渦に巻き込まれるのは、97年である。

ニューヨークのエゴン・シーレの展覧会で、作品の一部に戦時中ナチスがユダヤ人から没収した作品が含まれていることが分かり、同じような来歴を持つ作品の調査が始まった。

アデーレの姪で米国在住のマリア・アルトマンは「黄金のアデーレ」が同様の来歴を持ち、アデーレの没後の実質的所有者だったフェルディナントが甥姪らに相続させるとした遺言の正当性を主張して、オーストリア政府を相手に返還訴訟を起こす。

国境を超えて長期にわたったオーストリアでの仲裁裁判は2006年、この作品を含むクリムトの5点についてアルトマンの所有を認めた。

かくして「黄金のアデーレ」は1世紀の歳月を隔てて米国へ渡った。アルトマンはそれをナチス略奪絵画の返還運動を進める在米ユダヤ人実業家、ロナルド・ローダーに当時の絵画取引史上最高額といわれた1億3500万ドルで売却した。

いま、ニューヨーク5番街にある「20世紀のモナリザ」は1世紀前と変わらない輝きを伝える。それは同時代に逞しく生き続ける「ユダヤ的なもの」とは何か、と見る者に問いかける輝きでもある。

著者プロフィール
柴崎信三

柴崎信三

ジャーナリスト

1946年生まれ。日本経済新聞社で文化部長、論説委員などを務めて退社後、獨協大、白百合女子大などで非常勤講師。著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)などがある。

   

  • はてなブックマークに追加