美の来歴①「写実」という謎への旅

野田弘志とホキ美術館のたくらみ

2017年9月号 LIFE [美の来歴 第1回]
by 柴崎信三(ジャーナリスト)

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「聖なるものTHE-Ⅳ」(2013年、野田弘志)

写真/ホキ美術館

「世界にまれな写実絵画の専門美術館」を謳った「ホキ美術館」は2010年、バブル時代に「チバリーヒルズ」などと呼ばれた千葉市土気の住宅地のなかに、「昭和の森」の緑に接して開設された私立の美術館である。

地上と地下に三層を持つ長方形の回廊型ギャラリーは、灰色の鋭い外構がそのまま中空に跳ねだした印象的な建築で、背景の緑のなかにポストモダン風の独特の存在感を漂わせている。

収蔵作品は約450点を数え、森本草介、野田弘志、中山忠彦といった現代日本を代表する写実画家の静物、人物、風景など150点が常設展示される。

ホキ美術館の創設者で今年86歳になる保木将夫は、もともと文具小売業から身を起こして医療用機器メーカー「ホギメディカル」を創業した企業家だが、20年近く前に森本草介の「横になるポーズ」と出会って以来、現代日本の写実絵画に惹きこまれて鑑賞と蒐集に没入した。

蒐集した作品を自宅の隣の収蔵庫兼展示場で年に数回だけ一般公開したところ、来訪者が年々膨れ上がり、構想がそこから具体化していった。

「アンドリュー・ワイエスやアントニオ・ロペスなど、海外の現代写実画家の作品もずいぶん見て回ったが、日本人は細密画が得意で、その水準は確実に上がってきています」

それにしても、近代以降の絵画が志向するフォルムの解体を限りなく追いかけてきた現代美術の大きな潮流のなかで、21世紀のいまの日本でなぜ「写実」が改めて見直されるのだろう。

鳥の巣をめぐるドラマ

ホキ美術館の展示のなかでコアとも位置付けられる画家が野田弘志である。

ことし81歳の野田はいまも、北海道壮瞥町のアトリエを拠点として、北の大自然に囲まれながら人物や自然、オブジェなどの写実画の大作をゆったりとしたペースで描き続けている。どの作品にも通底するのは、生命の鏡としてのリアルであり、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロからレンブラントやフェルメールにいたる西欧の精神的正統に立ち返った「写実」の追求である。

戦後の復興期に東京芸大に学んだ野田は卒業後、広告代理店でイラストレーターとして活動した。高度成長期でいわゆる現代アートの万能時代だったが、病を得て退職した後、写実絵画の道に転身した。

転機は1983年から2年間にわたり朝日新聞に連載された作家、加賀乙彦の小説『湿原』の挿絵を担当したことである。

北海道を舞台にして、拘置所の精神科医である主人公の青年の魂の遍歴を描いた自伝風の作品は、画家の想像力と響きあい、毎日掲載される鉛筆の細密なデッサンが野田のその後の創作の方向に大きな影響をもたらした。

初期の代表作「やませみ」(1971年、豊橋市美術博物館)は漆黒の背景に飛翔するやませみの美しい姿と果実や鉱物のオブジェを配し、そのたくらみに満ちた空間の構成が「写実を超えた写実」という、この画家の世界を澱みなく伝えている。

野田の作品は、北海道の有珠山など雄大な自然を描いたもの(「蒼天」、2008年)から、モデルを使った女性像(「アナスタシア」、同年)など、描く対象もさまざまに変化するが、「写実」に向き合う画家の基本的な思考をもっとも端的に凝縮した作品が、藁で作った鳥の巣に産み落とされた二つの卵を素材にした「聖なるものTHE-Ⅳ」(2013年)であろう。親鳥が苦心して集めた藁で作られた巣は、その枯れ落ちた葉先が自然に四方に突き出して入り乱れている。しかし、真ん中の柔らかな産褥には、二つの褐色の新しい命が眠るように息づいている――。

野田はこう記している。

「ある日、庭の外れの牡丹の株を覗いたら鳥の巣があった。たまらなくなってその場で写真を撮ろうとしたが、上手く撮れない。巣をそっとはずしてアトリエで写真を撮って戻した。翌日は親鳥が来て卵は二つに。五つまでいって孵化して覗くと嘴をあけて餌をねだっている。しかし、その後見に行くと、巣も何もあとかたもなかった」

庭の鳥の巣をめぐる小さなドラマは、2メートル四方という大きなカンバスに作品化されたが、その制作にはおよそ1年近い歳月を費やした。

野田は制作にあたり、対象を撮影した写真を合わせて使う。もちろん、同じ三次元の世界を二次元の平面に映し出す表現の形式ではあっても、レンズを通した映像をシャッターが記録する写真はある意味で断片的なデータの集積である。

絵画は画家の目を通して人間の感覚全体に働きかけてくる現実の対象を、画布と絵の具という素材によって再構築してゆく作業であり、写実絵画にとって「写真」とは人間の認識を通した現実とメカニックな現実との「偏差」を確認する手段、ということになろう。

「超絶技巧」の新鮮な衝撃

19世紀のダゲレオタイプにはじまる写真という技術の浸透は、写真家ナダールの登場によって当時画家が独占していた肖像画の需要を写真に移行させて、西欧美術の流れを大きく変えた。画家は「写実」からの撤退を迫られたのである。

ルノワールやモネ、セザンヌ、シスレーといった画家たちが参加して1874年にパリのナダールの画廊で開かれた展覧会を嚆矢とする「印象派」の登場も、ある意味では写真というテクノロジーの台頭に促された「革命」であった。

点描や外光表現や筆触分割といった、印象派が繰り広げた表現手法の開発は、写真という表現の浸食で危機を深めた近代絵画がそれに代わる新たなリアリティーを手探りした結果である。

携帯電話は当初、10万画素ほどにすぎなかったが、十年余りのうちに200倍以上の画素になった。誰もが身の回りの現実を精細に記録できるデジタル革命の坩堝にあればこそ、「超絶技巧派」と呼ばれる若い写実画家たちが絵筆とカンバスを用いて再現する新たな「リアル」は新鮮な衝撃を観者にもたらす。

「写実」がファンタスティックな意味合いさえ帯びる時代がそこにあらわれつつあるのかもしれない。

著者プロフィール
柴崎信三

柴崎信三

ジャーナリスト

1946年生まれ。日本経済新聞社で文化部長、論説委員などを務めて退社後、獨協大、白百合女子大などで非常勤講師。著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)などがある。

   

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