国際機関が認定した「赤ちゃんにやさしい病院」で低酸素脳症事故が多発。医学の基本を無視したケアはもはや宗教。
2014年2月号 LIFE
長期にわたる入院の後、自宅介護に移った1歳のころの陽奈ちゃん
「あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる」「危険の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る」
これは「失敗学」の権威、畑村洋太郎氏(東京大学名誉教授、元福島第一原発事故政府事故調委員長)の言葉だ。事故はあらゆる分野で起こり得る。だから「可能な限りの想定と十分な準備」(畑村氏)をすべきだという戒めである。
では、かけがえのない人命を預かる病院はどうか。畑村氏の指摘に見合う事故防止の備えをしていると言えるだろうか。
3年前、WHO(世界保健機関)とユニセフが認定した「赤ちゃんにやさしい病院」で出産後間もない赤ちゃんが低酸素脳症になる医療事故が起き、現在、裁判が行われている。「ごく常識的な注意を払っていれば子どもは確実に救えた」。両親は、医療現場の事故防止意識の欠如に強い疑問を抱いている。
事故は国立病院機構九州医療センター(福岡市)で起きた。同センターは、WHOとユニセフの共同声明「母乳育児を成功させるための10カ条」に沿い母乳育児を推進、「赤ちゃんにやさしい病院」に認定されている。
センターでは、母乳育児の一環として分娩直後の赤ちゃんと母親の肌と肌を触れ合わせる「カンガルーケア」(KC)を行っている。母乳を出やすくし、児の体温保持や母子関係の確立などに効果があるとされる。
陽奈(ひな)ちゃんは3年前の2011年2月14日午後1時半過ぎ、同センターで生まれた。鈴木誠一、明子(仮名)夫妻が長年待ち望んだ末に初めて授かった赤ちゃんだった。病院側資料(助産録、新生児24時間観察記録)によると、体重2938グラム、健康状態は良好で異常なし。
午後3時頃、明子さんが分娩台で休んでいると、助産師が陽奈ちゃんを連れてきた。センターが掲げる「母乳育児を成功させるための10カ条」に沿ってKCを行うためだった。
10カ条とは「母親が分娩後30分以内に母乳を飲ませられるように援助する」「母子同室にする」、「医学的な必要がないのに母乳以外のもの、水分、糖水、人工乳を与えない」など。この「母乳育児3点セットとKC」(産科医)は厚生労働省も推奨している。
助産師は産着姿の陽奈ちゃんを明子さんの胸の上にうつ伏せ寝させ、陽奈ちゃんの唇を乳首にしっかりとくっつけたが、授乳は成功しなかった。
明子さんが個室に移動してからも助産師は何度か授乳目的のKCを行った。個室の温度は約20℃。「大人でもシャツ1枚では肌寒かったが陽奈は産着1枚。手足はむき出しで少し冷えていた。病院からはKCや母子同室について注意点などの説明はなく同意も求められなかった」と誠一さん。
誠一さんによると、陽奈ちゃんは「他の新生児に比べ顔色が白っぽく、時々泣いたり動いたりするが目は閉じたまま」だったが、助産師は「2、3日飲まず食わずでも大丈夫」と言うだけで、栄養補給をしなかった。
半日経った15日午前零時過ぎ、助産師は再び新生児室から陽奈ちゃんを連れてきて立ち去った。部屋は薄暗く、仰向け寝の明子さんにはうつ伏せ寝の陽奈ちゃんの頭ぐらいしか見えなかった。陽奈ちゃんはしばらく泣いていたが、やがて眠ったように大人しくなった
。
明子さんは疲れていたが眠らなかった。午前1時過ぎ、戻ってきた助産師に明子さんは「全然飲まずに眠っちゃったみたい」と言って、陽奈ちゃんを預けた。部屋を出た助産師は陽奈ちゃんが呼吸していないことに気づき、新生児集中治療室で心肺蘇生が始まった。自発呼吸が戻り、陽奈ちゃんは一命を取り留めたが低酸素脳症になった。
3歳の誕生日を目前にしたいまも陽奈ちゃんは意識不明のまま。瞼を閉じることができないため、いつも目は半開きで涙で濡れている。人工呼吸器と胃ろうなしには生きられず、心拍数低下や唾液の吸引の必要を知らせるアラームが頻繁に鳴り、両親は安心して眠れる日がない。
実はセンターでは09年11月にも同様の事故を起こし訴訟になっていたが、鈴木夫妻に隠していた。陽奈ちゃんの事故の3カ月後に『「カンガルーケア」巡り提訴』と新聞が報じ、夫妻は初めて事故を知った。
陽奈ちゃんの裁判の争点は窒息の可能性など。KCについて、政府は法的強制力を伴うガイドラインを定めていない。医療者側ワーキンググループが作成した「カンガルーケア・ガイドライン」によるとKCは母親が乳房の間に児を抱き、タオルなどで児を保温しながら授乳する。
またガイドラインは、KCによって「重大な急変が生じた例は決して稀ではない」と注意喚起。その上でKCを行う前に母親に十分説明し同意を得ること、新生児蘇生に熟練した医療者による観察を欠かさないこと、児の血中酸素濃度の機械的モニタリングの重要性を強調している。
センター側は陽奈ちゃんの心肺停止について「原因不明」とし、過失を否定。また肌を密着させていないなどの点から「KCは行っていない」と主張。本誌の取材には「係争中のためコメントしない」と答えている。
かねてよりKCに警鐘を鳴らし続けてきた「久保田産婦人科麻酔科医院」の久保田史郎院長は「KCには児の体温上昇の利点があるというが、証拠としてあげているのはザンビアという暑い土地でのデータ。日本では逆に体温低下による低血糖症をもたらし極めて危険。母乳が出やすいという証拠もない。うつ伏せ寝は窒息の危険がある上、タオルなどで児の体を覆っていると、チアノーゼ(寒さのため顔、手足などが青白くなる)が出ても見えないし呼吸状態も観察できない。KCは医学の基本を無視した宗教のようなものだ」と話している。
08年度に「こども未来財団」が全国の「赤ちゃんにやさしい病院」に行った調査によると、半数近い施設が原因不明のチアノーゼ、気道閉塞、心肺停止など57の事例を経験していたことがわかっている。