宇田左近・調査統括が明かす黒川事故調「奮闘記」

黒川委員長の懐刀として報告書の取りまとめを任された宇田左近氏が初めて明かす政府、霞が関、東京電力との攻防の舞台裏。

2012年10月号 POLITICS [特別寄稿]
by 宇田左近(黒川事故調・調査統括)

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2012年8月28日、黒川清委員長と行った講演「国会事故調からの報告――二本松の偉人・朝河博士の警告」は、福島県二本松市民会館に立ち見が出るほどの盛況だった。約1200人を前に、「国会事故調によって、国民が憲政史上初めて手に入れた行政(霞が関)に対する監視機能を2度と手放さないようにしてほしい」と切に願った。都心に戻った8月31日、約9カ月にわたる調査統括としての業務を終えた。

黒川流の「1本の電話」に参った

黒川清委員長(左)の懐刀、宇田左近・調査統括(右)

昨年11月末、国会に東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(通称国会事故調)が設置され、黒川委員長と9人の委員の名前が新聞に載った。12月になってすぐ、黒川さんから突然、「調査の取りまとめをやってくれないか」という電話。「私が原子力の専門家でないと知っていて依頼するとは大胆な」と思いながら、その場で引き受けてしまったのは、黒川さんの口説き上手に乗せられたから。「少し手伝って」といった中途半端な言い方ではなく、調査全体をまとめてほしいとの直々の要請に参った。

すぐにお会いすることにしたが、その時点では、国会図書館のスタッフが3人、法律事務所から来た弁護士が数人いるだけ。黒川さんはこの仕事を引き受けるにあたって、記者会見で「これはミッションインポッシブルだ」と語ったそうだが、これは本当にインポッシブルかもしれないと思った。

国会事故調は、憲政史上初の行政府から独立して国会に設置された委員会。3・11の事故直後から黒川さんが、世界からの信用を回復するために、このような独立委員会の設置を強く主張していたことは、このとき初めて知った。まさに前例のないことであり、その成功に向けて黒川さんと一緒に仕事ができるとなれば、これはやるしかないと気合が入った。

調査にはスタッフが必要だが、民間人が期間限定で国会の常勤職員となって活動することとされていた。八方手を尽くして頼み込んだところ、宇宙法研究者、現役映画監督、元新聞記者、弁護士、会計士、原子力コンサルタント、経営コンサルタント、元バンカーなど、政府・霞が関とも、また東電とも関係のない若者たち約20人が、黒川さんに共感し、また憲政史上初という前例がないことへの挑戦に意義を見出し、結集してくれた。このメンバーは、調査統括チームとして、その後6カ月間文字通り24時間フル稼働で調査をし、委員会をサポートし、報告書作成に尽力してくれた。

2月までの間、メンバー集めを進めながら二つのことを行った。一つは委員会を早くスタートさせること。もう一つはその間に自分自身としてプロジェクトの全体観を把握すること。黒川委員長の意向で、できるだけ早く現地からスタートすることとし、12月18日、19日に福島第一原子力発電所の事故現場と川俣町の仮設住宅、大熊町の除染現場訪問を行い福島市内で第1回の委員会を開催した。第2回、第3回の委員会は、現状把握を目的とし、第4回以降から、規制当局、東電、政治家の参考人招致を開始することとした。それまでの間に、自分自身でプロジェクトの全体観を把握できなくては、調査統括は務まらない。正月休み返上で政府、東電等の報告書類の読み込み、事故に関する出版物のチェック、また知人の原子炉設計者、米国の原発非常用発電機のエンジニア、ドイツの原子力プラント運営機関のエンジニアなどへのヒアリングをし、基礎情報を把握「課題分析」を行った。2月初旬までには検討の枠組みと作業イメージをある程度、明確に持てるようになっていた。

黒川委員長は早い段階で各委員に対し、米国のスリーマイル島事故のケムニーレポートを示して、世界から何を期待されているかを説いた。各委員も黒川委員長の方針を受け入れ、個々人の価値観や主義を乗り越え、「委員主導」で「事実ベースによる統合されたメッセージ」を目指し、「プロセスの透明性」を図ることになった。

委員会「世界ネット公開」の意味

調査は1千人を超える非公開のヒアリング、頻繁な被災地訪問、タウンミーティング、さらには海外調査など息つく暇もない強行スケジュールとなった。集められた「事実ベース」に沿って、3月初旬には調査統括チームで第1次の叩き台原稿を取りまとめ、その後6月下旬にかけて委員の議論を重ね10回以上の更新を行った。特に報告書の肝となる「結論と提言」部分については、いかなる変更も全委員の了解を必要とすることとした。報告書の2ページ目には、各委員の自署がある。それはこの報告書の内容全体に対する委員のコミットメントを示すものであり、これにより報告書は「統合されたメッセージ」となった。

調査統括としては、公開の委員会と調査内容との関連性が常に気になっていた。報告書に掲載すべき重要な事項は、公開でヒアリングを行っておく必要がある。それがないと委員会の内容と報告書の内容が分離してしまい、「プロセスの透明性」が失われる。事務局主導の政府の審議会方式と、何が違うかという議論にもなりかねない。調査が進むにつれて、公開でヒアリングすべき対象者が増え、結局、委員会は予定を超えて20回開催することとなった。

委員会「公開」の価値は、黒川委員長が黄門様よろしく参考人に参ったと言わせるのではなく、責任ある立場の人が、当時の状況の中でどのような判断をしたのか、ネットを通じて同時通訳で世界の人々に見てもらうことにあった。例えば、第9回の原子力安全・保安院長深野氏へのヒアリングは、今回の報告書に示した「規制組織の高い独立性」の根拠になった。原子力安全・保安院は「技術的知見」という報告書の中で安全に必要とする30項目を提示した。しかし政治決定された安全基準ではその中の15項目のみが取り上げられ、残りは事業者の自主判断にゆだねるという結論となった。委員会での問題意識は、規制当局のトップとして、技術的判断と政治判断を峻別し、技術的にはこの30項目が最低限必要であると政治家に言わなければならないという点だった。委員の質問に対して、深野氏が口を濁した瞬間、政治からの独立性がない場合の規制のトップの行動が全世界の目に晒された。

参考人の中で、一番あいまいな答弁をしたのは、第13回の松永和夫前経済産業事務次官だったのではないか。黒川委員長は「日本のエネルギー政策を統括するトップの人が、こう忘れっぽいというのも困ったものだ。こういう人が上にあがっていくということが日本国の信用の崩壊にもつながる」という趣旨のコメントをしたが、多くのネット視聴者から共感が寄せられた。

官僚組織にイモヅル式資料要求

資料請求は2千件を超えた。東電のビデオの存在がわかり、東電のデータルームでの視聴を行った。並行して電事連の議事録あるいは東電の社内議事録の確認作業も進み始めた。電事連から、津波被害に関する06年の「溢水勉強会」の資料を入手し、委員会で言及すると、不思議なことに突然保安院からも同様の事実が開示された。それならもっと早いうちに開示すべきだろうと思ったが、官僚組織は「ピンポイントで求められた資料を隠しはしないが、請求されなければ絶対出さない」という姿勢に徹している。東電も同じ体質であり、この官僚組織に対して、「何を要求すればよいか」を把握すること自体が大変な作業であった。しかし次第にイモヅル式に何を要求すべきかわかってきて、後半は攻勢に転じることができた。ある協力調査員は原子力安全委員会が93年に示した「長時間の全交流電源喪失については考えなくてよい」という立場を示す関連資料を要求するなかで「実は安全委員会は、その理由を事業者に作文依頼していた」という新事実をつかんだ。委員会法12条に資料請求権は定められているが、何を請求するかがわからなければ宝の持ち腐れとなる。要求されなければ決して自らは出さない官僚組織相手の調査としては、概ね6カ月と定められた委員会の期間は、非常に短いものだった。

連日徹夜の調査統括チーム(2012年6月)

被災状況の把握も簡単ではなかった。当初のタウンミーティングでは政府と間違えられ厳しい言葉を投げかけられた。私も「お前は霞が関か」と言われたこともある。しかし、ひとたび国会に設置された委員会の意味が理解されるとスムースに進んだ。市町村ごとに当時の状況が違っており、事実として全体像を把握することがきわめて難しいこともわかった。検証には広範囲の調査が必要であると感じ、被災住民2万世帯に調査票を配布した。結果として1万人以上の方から回答を得ることができ、またその80%以上の人たちが自由回答欄にびっしりと思いの丈を書いてくれた。この一人一人の思いをどうやって国会に伝えるか、重大な責任を負うことになった。

記者会見で必ず質問されるのが「政治家を呼ばないのか」、「東電の勝俣恒久会長、吉田昌郎所長はいつ呼ぶのか」だった。これらの参考人招致は、特に慎重に周辺事実を把握してから行う予定で、意図的に後ろ倒しにしていた。5月中旬の第12回委員会で、勝俣会長には原子力を扱う経営トップの覚悟の有無を問い、それを世界に見てもらいたいと考えたが、清水社長に責任転嫁する姿勢を、世界はどう見ただろうか。

公開で行う政治家については当時の最高意思決定者に限定することを黒川委員長と確認し、5月の中旬から下旬にかけて公開でのヒアリングを行った。政治家は公開の場に慣れており、また事故から1年余が経っている。委員会の質疑で新しい事実を引き出すことはあまり期待しなかったが、菅直人総理、海江田万里経済産業大臣、枝野幸男官房長官(いずれも事故当時)が同時通訳つきの委員会で、自らの口で当時の判断を説明したことは、世界に対する日本の信頼回復にとって重要だったのではないか。

病床の吉田所長と向き合う

一方、当時マスコミの関心は東電の撤退問題に集約されていた。事前に事実関係を把握するための分析を進めていたが、委員会では政治家3名とも「全員」、「撤退」という言葉を、清水社長から直接聞いて確認したわけではないが、そのように認識した、という主旨の発言を行った。これによって検証の方向が明確になった。

吉田所長のヒアリングは調査の鍵となるものであり、早い段階から東京電力に申し入れをしていたが、ご本人の体調が思わしくなく、ヒアリングは延び延びになっていた。5月の中旬、東京電力から、今なら20~30分であればヒアリングができる旨の連絡を受け、病院を訪問した。体調を気にしながらのヒアリングとなったが、医師でもある黒川委員長が、自然体で点滴の様子をチェックしようとしたことから、場が一気に打ち解けた雰囲気となり、吉田所長の好意で、予定を大幅に超えて話を聞くことができた。全員撤退問題も現場にはその意思がなかったことなど説明を受けた。また政府事故調から長時間の聴取を受けた際の自分の発言内容についてもよく読んでほしいという主旨の発言があり、これを受けて政府事故調に開示を申し入れ、最終的にすべて目を通すことができた。体調不良を押して何とか当時の状況を伝えようとする吉田所長との対話は、現場の視点から当時を再検証する重要なきっかけになった。

報告書では七つの提言を示した。国会によって設置され、憲政史上初の国会によって権限が与えられた独立調査委員会によって、行政に対する監視という極めて重要な役割を国民が初めて手にした。提言の実現により、この仕組みを1回限りで手放すのではなく継続して保持していくことができればと切に願う。その結果、7番目の提言にある第2第3の第三者委員会が後に続くならば、政府・霞が関から独立した事務局・調査部隊に、今回のようにまた高い志を持った若者たちが結集し、未来につながる提言を出していってもらいたいと思う。

著者プロフィール

宇田左近(うだ・さこん)

黒川事故調・調査統括

1955年生まれ。東大工卒、東大修士課程修了。シカゴ大学でMBA取得。NKK(現JFE)を経てマッキンゼー・アンド・カンパニー入社。郵政民営化に関する有識者会議委員、日本郵政専務執行役などを歴任。

   

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