2012年10月号
連載
by 宮
東電本店103号会議室。公開されたテレビ会議録画映像(150時間)と向き合う。3月14日午前11時1分、免震重要棟の吉田所長が叫ぶ。「本店、本店、大変です、大変です。3号機、多分水素だと思う爆発が今起こりました」。早期にD/W圧力が上昇し、現場は一時退避。7時半頃、作業を再開したものの、いつ爆発するか、命がけだった。原子炉冷却作業中だった陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊は降り注ぐコンクリート片で4人が負傷。岩熊真司隊長は「助からないと思った。東電から水素爆発の可能性があるとの説明はなかったが、彼らも必死だったから怒りはない」と語っていたのを思い出す。
「沈勇」という死語同然の言葉は、戦前の子どもたちの誇りだった。明治43年、広島湾で訓練中の潜水艇が沈没。2日後に引き上げられた時、艇員14名は整然として持ち場についたまま絶命していた。艇長の佐久間勉(30)は海面の小さなのぞき穴から入ってくるかすかな光を頼りに、事故に至る経過を39ページにわたって手帳に鉛筆で書き残し、「公遺言」として「謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之アルノミ」と記し、息絶えた。当時、英国の新聞は「日本人は体力的に勇敢であるばかりか、道徳、精神上も勇敢であることを証明した。古今世界に例がない」と驚嘆した。
死を覚悟した現場ほど尊いものはない。吉田所長はPTSDに苦しむと聞く。東電幹部は「危ない病状ではない」というが、気がかりだ。東電は4月11日までのテレビ会議録画を公開すると発表したが、そろそろ戦場に踏みとどまった男たちの肉声を聞きたい。政府事故調は、癌を患う前の吉田所長から20時間ものヒアリングをしている。平成の「沈勇の士」は、何を語ったか。それこそ国民共有の財産である。