蜂須賀 禮子 氏
国会事故調査委員会委員(大熊町商工会会長)
2012年8月号
LIFE [インタビュー]
インタビュアー 宮嶋巌
1952年福島県生まれ。県立浪江高等学校卒業。福島第1原発が立地する大熊町駅前でフラワーショップ「はなさく」(生花店)を経営。現在、避難先の会津若松市内の仮設住宅に暮らす。
――仮設住宅から国会事故調がある衆議院に通いましたね。
蜂須賀 昨年3月12日の早朝、娘夫婦と孫を連れてクルマで郡山に逃げました。5つの避難所を転々とした後、会津若松の仮設住宅へ。原発4キロ地点の我が家の線量は毎時20マイクロシーベルト。とても帰れません。
そんな私に委員のお話が来ました。私には知識も学歴もないけれど、避難者としての今の現実、声の奥の心の叫びを直接伝えることができるかもしれないと、引き受けました。
昨年12月の初顔合わせのことです。黒川(清)委員長が「蜂須賀さん、僕らは何からやるべきだと思う」とお尋ねになる。「事故後、何一つ心の安心がない現場を見てください」と申し上げると、「よし、行こう」と即断されました。第1回委員会の前日、先生方を乗せたバスは福島原発と大熊町役場での除染を視察した後、川俣町内の仮設住宅を訪ね、町長や仮設の自治会長から話を聞きました。先生方に被災住民の視点をできる限り理解していただくこと――。それが、私の仕事になりました。
――「被災者目線」に徹した?
蜂須賀 被災自治体でタウンミーティングを3回開いたほか、双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、楢葉町、川内村、広野町、葛尾村、南相馬市、田村市、飯舘村、川俣町の12市町村に委員が出向き、お話を聞きました。
また、被災住民アンケートには1万633人の回答が寄せられ、調査票の自由回答欄に貴重なご意見をいただいた方が8066人に上りました。さらに、事故発生当時、福島第一原発で作業をしていた東京電力と協力会社の作業従業員にもアンケート調査を行い、2415人の方から回答を得ました。
――徹底した検証のため、延べ1167人、900時間を超えるヒアリングを行いましたね。
蜂須賀 それはそれは大変な仕事でした。普通の人では思いも考えもしない原発事故の真実を知っていくうちに、他の委員の人たちとは異なる思いがふつふつと湧いてきました。
それがいかに重く、耐え難いものであっても、これが事実と受け入れ、怒りと失望に体が震えるのを感じながら事故調査に向き合ってきました。
――委員の間で意見対立は?
蜂須賀 640ページの報告書の元となる原稿は3倍ぐらいありました。先生方が激論を交わして、表現を煮詰めていきました。重苦しい雰囲気になると「被災地ではどう考えているの」とお尋ねになる。そのたびに、私は思いの丈を述べました。
報告書の冒頭に〈この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった〉と明記しました。さらに、未来志向の七つの提言を行いました。その中には〈被災住民に対する政府の対応〉を求める政策提言もあります。
私は胸を張って、この報告書を仮設住宅に持ち帰ります。そして提言の実現を求めて立ち上がろうと、多くの仲間に呼びかけます。それが、私たち被災住民の再起に繋がると信じています。