「3・11」は全て人災だった

人間の作ったものは何であれ兵器になる。文明の破壊力は結局、人間自身に向かう。

2012年4月号 DEEP [特別寄稿]
by 浅野誠(千葉県精神科医療センター長・作家)

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浅野誠

浅野誠(あさの・まこと)

千葉県精神科医療センター長・作家

1946年新潟生まれ。73年千葉大医学部卒。85年千葉県精神科医療センター診療部長、2005年より現職。24時間対応の精神科救急の仕組みづくりに尽力。12年1月「第40回医療功労賞」を受賞。著書に『ビジネスマンの精神病棟』(ちくま文庫)など。

小さい頃、母に付いて米を貰いに新潟の祖母のところによくいった。祖母は小柄だが骨太で働き者で口が悪い。祖母の家の裏の雑木林に樹齢100年くらいの椎の木があり、私はそれによじ登るのが好きだった。目ざとく見つけた祖母の口調は厳しい。「枝が折れるから気をつけろ。どの枝が折れるか折れないかわかるか。ぶら下がってみねばわからねえ。折れたらどうする? 死なねえように落ちろ」

ひどいことを言うばあさんだと子供心に思ったが、彼女は自然との付き合い方を私に教えてくれたように思える。昨年の東日本大震災から1年が経ち、防災や復興についてさまざまな見解が飛び交うが、やや薄味の意見が多いような気がする。

過去に大地震はいくつもあり、その都度さまざま工夫がなされてきたはずである。しかし地震予知は機能しなかったし、ギネスブックに載った自慢の堤防も簡単に壊れてしまった。原発のさまざまなマニュアルは、肝心の初期対応に全く役に立たなかった。むしろそういった対策や工夫そのものが、災害をより深刻化させたケースすら見受けられる。陸前高田市の結婚を控えた女性はマニュアル通り避難したのに、その避難所で被災してしまった。堤防が世界一でなかったら、もっと早く逃げ得たのではないかという反省も出た。

自然から見れば水をかけただけに過ぎないのに、砂糖菓子のように自壊した原発。今までの地震で天災か人災かの議論はなかったと思うが、3・11で人災論がでた。原発事故のみならず3・11の災害は全て人災であったと言えまいか。思うに、自然との付き合い方を私たちは間違えてきたのではないか。

病棟に「森のような空間」

今から35年ほど前、精神病棟の設計を任されたことがある。既存の病棟は老朽化が激しいうえ大部屋ばかりで、一部屋に20人近く詰め込まれ、自分の居場所は布団1枚程度という狭さである。外には自由に出られず、唯一動ける廊下も勤務室からの死角ができぬようまっすぐに伸び、すぐ行き止まる構造であった。つまり、監視の目が行き届くように恐ろしくシンプルに作られていた。

そこに10代から80歳まで、60人ほどの患者が数カ月から最長20年という期間、収容されていた。プライバシーは無視され、収容者には、いつここから出られるのかも告げられていなかった。これでは患者は絶望し精神の治療などできるはずもないが、それが当時の精神病棟の標準であった。建て替えの予算は限られ、広い病棟を立てることは望むべくもない。少ない職員で管理するためには、また似たようなシンプルで殺風景な病棟にするしかないのだろうか。

祖母の家の裏庭の雑木林に続いて森があった。森は深く、小さな私が遊べる範囲は広いものではない。しかし、そのわずかな範囲に実に多様な生き物がいた。さまざまなルートがあり、回遊もでき、無限の広がりがあった。森と同じ構造を取り入れれば、狭い空間を広く使える。森のように、隠れることも出会うこともできる空間を、病棟の中に作り出せないか。さすがに柱を立てることは施工主が受け入れなかったが、できるだけ病室を細かく分け、セルのようにいくつもの部屋を作り、廊下も回遊できるようにした。

「死角が多すぎて管理できない」と反対も出たが、どれほどシンプルに作っても死角は必ずどこかにはできる。それが10倍になったからといって、事故は死角の一つで起こるだけで、10倍になるわけではない。患者一人一人の状態を見極めておくほうが重要である。狭い空間では人々は互いに緊張を高め病状も不安定になりやすい。緊張しない構造であれば病状も安定し、自殺のような事故も減るはずだと私は主張し、反対を抑え込んだ。大部屋と短い廊下のシンプルな構造よりも、監視はしにくいが、多様な患者を多様なままでケアし、自由な運動をある程度保障できる複雑な構造のほうが、緊張を和らげ得ると考えたのだ。ささやかではあるがパラダイムの変換を行ったのである。

骨の折れる「自然との調和」

ジェームス・キャメロンの『アバター』や宮崎駿の『物の怪姫』のテーマは、文明と森(自然)との戦いである。両監督は文明が生んだ技術(科学)は破壊力に優れ、自然には創造する力があるものとして描く。文明の破壊力は結局人間自身に向けられ、最後は自然が勝利する。

人間の作ったものは何であれ兵器になることからも文明は必ず人間を害する側面を持つ。平和利用のつもりでいた原発も極めて危険なものだと骨身にしみた。私が35年前、精神医学の名のもとに精神病棟に押し込められていた患者を見て感じたのも、この危険のことであった。

この200年ほど急速に発達した科学は自然との調和を無視してきた。科学は自然界の特殊な現象を取り扱っているにすぎないことも、案外無視されている。医学もまたその例外ではない。キャメロンも環境破壊に驚いて『アバター』をつくったそうだが、科学が環境破壊をもたらしたのも、自然との調和を無視してきた結果である。

森の構造を参考にした新病棟は、多少の恩恵を患者にもたらしたようだ。他の病院では治療できなかった患者を何人か受け入れることもでき、恐れた事故も概ね未然に防いだ。しかし運営は結構大変であった。患者の把握に努めるため、そこで働いた6年間、私にはまとまった休みがなかった。豊かな森は見えないところも数多く、一定の危険を孕む。ただまめな努力によってそれは克服できることも確かである。自然との調和は骨の折れる作業だが、豊かな成果もありうるのである。

世界一の壮大な堤防や原発はそもそも自然との調和という発想から作られておらず、もっぱら人間の都合と安楽安寧のために生み出されてきた。3・11は、自然がそれを破壊することで人間の驕りへの警告を行ったのではないか。私たちは過去のやり口とは違った、より自然と調和できるパラダイムを模索しなくてはならない。35年前の森に似せた精神病棟の経験はそのヒントとならないだろうか。椎の木にへばりつく私に厳しい言葉を吐く祖母は、自然との付き合い方を今の人々よりよく知っていたのではないか。

   

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