伊藤 一郎氏 氏
旭化成会長
2012年3月号
BUSINESS [インタビュー]
インタビュアー 本誌 宮嶋巌
1942年東京都生まれ。69歳。66年東大経済学部卒。旭化成工業(当時)入社。繊維事業部門、経営企画・戦略畑を歩き、新事業の創出や不採算部門のリストラなどで手腕を発揮。2001年取締役、10年4月から現職。
写真/平尾秀明
――「3.11」から早1年を迎えます。
伊藤 昨年、我が国は大地震と津波、それに伴う原発事故という苦難に見舞われ、世界では、欧州の債務危機や米国債の格下げ、アラブの民主化運動、北朝鮮の金正日書記の死去など、大きな節目の年になりました。今年は被災地の復興はもちろんのこと、日本全体の「復興元年」にしたいものです。
――昨年の日本の貿易収支は81年以来31年ぶりの赤字に転落しました。
伊藤 直接の原因は大震災と円高です。国内生産が大打撃を受け、価格競争力も落ちましたが、実は驚くに値しない。なぜなら、日本の「輸出立国モデル」は震災前から曲がり角でした。
――電機も自動車も苦しいですね。
伊藤 世界は歴史的な転換点にあります。日本は非欧米国家として唯一、工業化に成功した国でしたが、今ではアジアだけでも中国13億人、インド12億人、ASEAN5億人、計30億人の人口大国が工業化の道を突き進んでいます。震災前から日本の製造業は、イコールフッティング対応への遅れ、新興国企業のキャッチアップ、円高などから、家電や自動車といった汎用製品では国際競争力と収益性が落ちていました。日本経済を支えてきたモノづくりの基盤が揺らいでいるのです。放置したら産業の空洞化が一気に進む。製造業の空洞化を回避するため何が必要か、知恵を絞らねばなりません。
――今年の景気の見通しは?
伊藤 政府は20兆円規模の復興予算を組みました。その結果、今年の日本経済は、前半は復興需要を中心とする内需に支えられ、後半には輸出中心の外需の回復が加わり、全体として緩やかな成長が続くと見ていました。ところが、1月下旬にIMF(国際通貨基金)が「世界経済は失速」との見通しを発表。IMFのような国際機関が「景気失速」を打ち出すのは異例のことです。欧州債務・金融危機の拡大による新たな経済危機の発生が否定できず、国内経済の先行きも不透明です。
――旭化成は昨年、中期経営計画を策定し、15年度に売上高2兆円、営業利益2千億円の高い目標を掲げました。
伊藤 当社は今年創立90周年を迎えます。新中計を作るに当たって、成長戦略を継続するには何が必要か、社内で議論してもらいました。社員に共通する思いは「創業時代から継続してきた『挑戦するDNA』の復活」。新しい技術、モノづくりに対する積極性が第1であることを再認識するものでした。今、我が国に問われているものは、世界の発展に寄与しながら「日本らしさ」「旭化成らしさ」という独自性をどう発揮するかです。環境・エネルギー問題、食糧・水問題、少子高齢化、若者の雇用問題など、多くの国が共通に抱える問題について、世界に先駆けて解決モデルを提示・実践する「課題解決型イノベーション」の構築こそが、日本の進むべき道だと思います。
――被災3県には片親を亡くした「震災遺児」が2千人、両親を亡くした「震災孤児」が200人もいます。
伊藤 実は、私の両親が新婚8カ月目に父に召集令状が来ました。母は私を身ごもっており、父がラバウルに出征後、私は生まれたのです。その後、父が戦死したため、私ども父子は生きて顔を合わせることはありませんでした。終戦後、母は娘時代に習った洋裁の内職をしながら、一人っ子の私を育ててくれました。私の小学校入学は昭和24年。それから中学校を卒業するまでは、東京ではまともな家でも食料難の時代でしたから、我が家は食うや食わずの有り様で、6畳一間にトイレは共用という貧乏暮らしを余儀なくされました。当時、小学校へは給食費、学級費等を毎月300円納める必要がありましたが、持っていけないことが何回もありました。うどん玉が1食5円か10円の時代だったと思いますが、本当に貧しい食卓に、具が入っていないうどんだけの夕食であっても母は私に多めに盛りつけてくれました。
――岩手では母子家庭の母親が津波に呑まれ、無職の祖父(89)が独りで長女(中1)と長男(小4)を育て、宮城では津波で父が死亡、母と兄が不明、次男(小5)だけが生き残ったが、別世帯の祖父母も亡くなり、祖母の妹(64)が引き取った例があります。
伊藤 社会の包容力が問われますね。私の場合、母にこれ以上の苦労はかけられないと、中学3年の進路指導で「就職」希望である旨を伝えました。すると校長先生、教頭先生と担任の先生が相談して、私を高校に進学させようと動いてくださいました。私は日本育英会の奨学金と、当時のPTA会長の息子さんの家庭教師を3年間務めることで日比谷高校に進学し、アルバイトと奨学金で大学を卒業することができました。旭化成に就職した時の感慨は「これで自分も何とか一人前に生きていける」というものでした。中学時代の恩師や当時のPTAの会長には感謝しても仕切れないものがあります。
振り返ると、子どもの頃の極限に近い貧乏体験により、その後の人生で出会うことになる修羅場や難問に対し恐れたり、怯んだりすることがなくて済みました。別の言い方をすれば、人生は生死にかかわること以外は辛抱と知恵で乗り切れるということが自然に身についたということです。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」といわれますが、できるだけ早く、スポーツでも社会奉仕でもアルバイトでも徹底してやることが肝要だと思います。
私には現在の艱難辛苦を乗り越えた被災地の若者の中から、やがて我が国を立て直す真のリーダーが現れる予感がします。「家貧しくして孝子出(い)ず、国乱れて忠臣出(い)ず」。世の中とはそういうものだと信じています。