新社保庁長官「坂野泰治」の評判

風圧に負けない「行革のプロ」

2007年10月号 POLITICS [CHALLENGER]
by M

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坂野 泰治(ばんのたいじ)

新社会保険庁長官

内閣改造を数日後に控えた8月24日、社会保険庁長官の交代が発表された。後任は元総務省行政管理局長の坂野泰治氏(ばんのたいじ、60)。3年前に退官してNHK監事を務めていた。

坂野氏に突然、首相官邸から電話がかかってきたのは、その前日の23日午後だった。何の前触れもなく、「とにかく引き受けてくれ」と即答を求められたという。NHK監事は経営委員会の承認が必要なポスト。勝手に辞められない。さすがに即答できず、関係者の了解を得て、翌日、受諾した。「柳沢伯夫厚生労働大臣の記者発表に、何とか間に合ってホッとしました」と坂野氏は言う。

参院選の与党大敗後、官邸は村瀬清司長官の後任探しを開始した。経済界に候補者の推薦を求めたが、体よく断られた。与野党から袋叩きにあう前長官の姿を見た民間になり手はなかった。官邸は半ば匙を投げ、村瀬続投に傾きかかっていた。坂野氏は土壇場で、よくぞ引き受けた。しかし、火中の栗を拾ったことにならないか。「そうは思いませんね。お上から拝命したら、たとえ戦場でもどこへでも行くのが役人というもの。長く役人をやったお蔭で習い性になっている」と、坂野氏はこともなげに言う。

白羽の矢が立ったのには理由がある。知る人ぞ知る行革畑の仕事師だからだ。京大法学部を卒業した坂野氏が旧行政管理庁に入ったのは1969年。83年に後藤田正晴氏が行管庁長官に就任するや、秘書官に抜擢された。当時の中曽根内閣は「増税なき財政再建」を看板に掲げ、国鉄、電電公社などの民営化を断行しようとしていた。官僚の抵抗を押さえ込むのが後藤田氏の役割。そのためには各省庁の動きをつぶさに把握して、不穏な動きに対抗せねばならない。「カミソリ」後藤田に仕えるには並の情報収集・分析では足りない。2年間の秘書官在任中の猛烈な仕事ぶりは伝説となった。曰く「坂野氏は眠らない。土日も休まない」「国会開会中は朝まで帰宅しない」と。

坂野氏の名が霞が関で広く知れ渡るようになったのは橋本内閣時代だ。96年に行政改革会議が発足し、中央省庁再編の絵図面作りが始まった。坂野氏は同事務局で省庁再編の案を取りまとめ、その後は中央省庁再編等基本法案の準備室長を務めた。同法案の成立により1府22省庁が1府12省庁となり、今日の官邸機能の強化が実現した。

当時、柳沢前厚労大臣は自民党の行政改革推進本部事務局長として、政府側事務局の坂野氏と二人三脚で法案成立に取り組んだ経緯がある。柳沢氏は坂野氏を抜擢した理由を「国家行政組織のエキスパート。風圧に負けない行革一筋の猛者だ」と述べた。

社保庁は2010年に廃止され、日本年金機構へ移行する。職員の非公務員化や民間委託の活用により、お役所仕事から脱し業務の効率化、透明化を図る目論見だ。就任早々不祥事対応に追われる坂野氏だが、日本年金機構の組織・運営をどうするか、行革のプロの本領が問われる。

すでに勇退した人物が出身母体と異なる役所の長官に就くなど、霞が関の常識ではあり得ない。官邸の「制裁人事」に違いなく、「よそ者」新長官への強い反発が予想される。

社保庁は全国に300余の出先機関を持ち、職員数1万6800人、非常勤のアルバイトなど約1万1500人を擁する巨大組織だ。村瀬前長官に出身母体の損保ジャパンがつけたスタッフは秘書1人だけだった。坂野氏には自前チームはなく、たった一人で「敵地」に乗り込んだ。巨大な伏魔殿の改革には選りすぐりのスタッフが必要だ。前長官の挫折を繰り返してはなるまい。

   

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