広告塔は東国原宮崎県知事。 都知事選を試金石に「北川新党」待望論が湧き起こるか。
2007年4月号 POLITICS
「戦いは15日の公開討論会から始まりますから。期待してますよ」。3月2日夜、東京・二番町。前三重県知事の早大教授・北川正恭は記者団に不敵な笑みを浮かべて見せた。
「改革派知事」の盟友だった前宮城県知事・浅野史郎が22日告示の東京都知事選に出馬。民主党の出方に関心が集中したのをよそに、北川が決戦場と見たのは東京青年会議所が音頭を取って計画したマニフェスト(政権公約)型公開討論会だった。
北川はこの夜、ビジネススクールやベンチャー育成を手がけるグロービス・グループ代表の堀義人らが呼びかけた平均30代半ばの160人ほどの集まりに出席。4月の統一地方選に向けて「マニフェストを読んで選挙に行こう」と訴えた。堀も「多様な組織が参加し、横の連携が増えてきた。これは北川教授のリーダーシップで大きな運動になりうる」と力を込めた。
日本の選挙といえば「豊かな社会を実現する」「住みよい街を創る」などのバラ色で総花的な公約が定番だった。マニフェストは英国が源流。政党が具体的な数値目標、財源、実行期限などを盛り込んだ体系的な政策集を有権者に明示し、政権を競う。約束をどこまで実行したか、有権者は後から検証し、次の投票行動に生かす。政策本位の選挙を基軸に政治に「PDCAサイクル」を持ち込む試みだ。
2003年の前回の統一地方選で北川が火を点け、岩手県知事・増田寛也らが先駆者となった。民主党が飛びつき、同年秋の衆院選でマニフェストを作成。自民党も受けて立った。公職選挙法は買収などの不正を取り締まる観点から、選挙運動期間中に配れる文書を厳しく規制する。この時、与野党は国政選挙の政党マニフェストだけを解禁、地方選挙は置き去りにした。
風穴を開けたのが今年1月の宮崎県知事選の「そのまんまショック」だ。「学歴詐称か?」。北川は選挙戦当初、まさかの当選を果たす東国原英夫が「北川教授の下で勉強した」と演説していると聞いて眉をひそめた。面識などなかった。調べると、東国原は早大在籍中に北川主催のシンポジウムを熱心に傍聴していたことが分かった。北川の教え子がマニフェスト作りに加わってもいた。
「そのまんまマニフェスト」は「入札改革で公共投資1割減」「新規雇用1万人創出」など素人が作った分、教科書どおりに厳しい数値目標もしっかり盛り込んだ。泡沫候補扱いを一変させたのは告示前日の1月3日、宮崎青年会議所が主催した公開討論会だった。他候補を引き離す分かりやすい政策構想を披露し「そこに確かなマニフェストがあった」(神吉信之ローカル・マニフェスト推進ネットワーク九州代表)と驚きを持って認知されたのだ。
北川は東国原の派手で危ういメディア戦略とは距離を置きつつ、「たけし軍団の代わりにマニフェストを連れていったのが無党派層をつかんだ勝因」とマニフェスト運動の広告塔に祭り上げた。与野党も地方選マニフェスト解禁に腰を上げざるを得なくなった。そこへ都知事選で現職の石原慎太郎の対抗馬として親しい浅野が徒手空拳で打って出た。
浅野は01年に宮城県知事に3選、05年に勇退したのでマニフェスト選挙は初体験になる。「書かなければ勝てないぞ。オリンピック招致問題、情報公開など対立軸はいくらでもある」。北川は浅野にささやいた。石原は警戒して同じ土俵に乗らないとみられたが、「配れるようになった以上、配らないと『書く能力がないからだ』と思われて不利になる。だから、皆、書かざるを得ない」。北川は公開討論会が流れをつくった宮崎の再来を予言してみせた。
「0.1秒の改革を進めよう」。3月5日、北川は早大に自治体関係者を集め、深夜にわたりがちな選挙の開票のスピード化の旗を振っていた。地方選をにらむ第二の仕掛けだ。「速報性を高め、有権者の選挙への関心を向上させる。マニフェストと並ぶ民主主義のインフラ整備だ」。自治体職員の休日・深夜手当の削減効果は4年間で最大50億円とも説く。議会選がある44の道府県をランク付けすると宣言し、横並び意識の強い自治体間の競争を煽る。
北川は新党を起こして永田町へ攻め込み、権力を奪取して政治の供給サイドを改革しようという従来型の手法を取らない。マニフェストもスピード開票も消費者サイドというべき有権者の視点に立ち、民主主義の原点である「選挙」のあり方を揺さぶる。そこから供給側の政党や候補者を変えてしまおうという独特のアプローチだ。知事時代のスローガン「生活者起点」にならえば「有権者起点」の思想とでも呼ぼう。
英国型の国政の政党マニフェストを地方選挙に持ち込んだのも北川流。政治学者は「知事や市町村長がマニフェストを創っても、地方議会との二元代表制でうまくいかない」と冷笑したが、北川は「理論なき実践は暴挙だが、実践なき理論は空虚だ」とどこ吹く風。「選挙で得する話があるらしい」と不純な動機ですり寄る首長や地方議員たちまで委細構わず取り込み、まずは運動を全国に広めて風を巻き起こそうと仕掛けた。
マニフェストとスピード開票という二つの仕掛けで全国を駆け巡るうちに津々浦々の政治情報がリアルタイムで飛び込んでくるネットワークを築いた。
堀やサイバーエージェント社長・藤田晋ら政治に関心を強める新興経営者とも連携。マニフェスト運動の統一ロゴ「マニちゃん」は「きっかけは、フジテレビ。」のCM企画などで知られる金髪のアートディレクター・箭(や)内(ない)道彦が無料でデザインした。ここでも運動の裾野を広げてエネルギーを増すことに腐心する。
北川は90年代前半、衆院への小選挙区制導入を柱とする政治改革の旗を振った若手国会議員の「残党」だ。小選挙区制で2大政党による政権交代が可能な政治への移行を促そうとした。2大政党間の政策論争を通じて有権者が政権を選択できるのが理想型。狭くなった選挙区での利益誘導合戦から国会議員を解放するため、補助会撤廃などの地方分権も表裏一体で推進するはずだった。
マニフェスト運動や地方分権に猛進するのは未完の政治改革を遂行する有力な武器だという「残党」の使命感からだ。「民主主義のインフラ整備」はきれい事ではない。政治改革の究極の目標は政権交代。自民党は北川を厳しく警戒する。民主党ともつかず離れずだ。代表・小沢一郎は参院選勝利を至上命題に連合をはじめ1人区での団体・組織票固めに血道をあげる。政策は消費税率の据え置きなど付け焼き刃。北川とはなかなか呼吸が合ってこない。
「なぜ民主党が俺と同じことをやろうとしないのか、俺を利用しようとしないのか、不思議だね」と北川は漏らしたことがある。都知事選でも待望論の出た代表代行・菅直人は小沢の健康不安を見越した次期代表への色気からか逃げた。無党派の浅野が北川の指南でマニフェスト選挙に打って出て石原を破れば、半分はマニフェスト運動の勝利に等しく、半分は民主党の敗北に等しい。
北川の口癖は「北京の蝶々」だ。北京で1匹の蝶が羽ばたくと、次々に他の蝶が共振し、地球の裏側のニューヨークでハリケーンを起こすというカオス理論の引用だ。4年前の羽ばたきが都政に嵐を呼ぶ一歩手前まで来た。62歳。今後も「有権者起点の運動家」の特異な立ち位置を貫くのか。不甲斐ない民主党を尻目に「北川新党」待望論が湧き起こるのか。地方選から参院選に向けて目が離せない。(敬称略)