インタビュー/アシックス社長 富永 満之 氏(聞き手/本誌 宮嶋巌)

「デジタル×グローバル」で稀に見る成長軌道を「爆走」

2024年5月号 BUSINESS [リーダーに聞く!]

  • はてなブックマークに追加

1962年神戸市生まれ。米カリフォルニア・ポリテクニック州立大卒、米パデュー大でMBA取得。 アンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)、日本IBM、SAPを経て、2018年にアシックス入社。20年常務執行役員兼CDO・CIO。今年1月より現職。

――外資系IT企業から6年前にアシックスに転じ、社長の座を射止めました。

富永 もともと売上高の海外比率が高かったアシックスが、デジタル戦略で先行する欧米企業に対抗するには、世界各国でまちまちだった20ものシステムの統合が喫緊の課題でした。10年ほど前、私はSAPの最新システムを提案するサイドにおり、そのご縁から廣田康人社長(現会長)にスカウトされました。

「データドリブン経営」のお手本

――入社時、いずれ社長になると?

富永 いえ、夢にも思いませんでした。そもそも外資系IT企業の出身者が、日本の事業会社の社長になった例をほとんど聞いたことがありません。とはいえ「DXの舵取り役」を託された時は腕が鳴りました。私はずっとシステムを提案する側でしたから、事業会社で「グローバル×デジタル」の商売をリードしてみたかった。日本で企画し、アジアで作り、全世界に売るという当社のビジネスモデルはシンプルであり、グローバルなシステム統合のメリットは大きく、必ず成功すると思いました。

とはいえ、ERP(基幹システム)統合は数百億円を投ずる一大事業でした。まず1年かけてグローバル対応のビジネステンプレート(ひな形)を作り、欧州から北米、豪州の順に展開し、最後に最も難易度が高い日本に導入したのは2021年のことです。今では世界販売の90%を一つのデータベースで管理し、どの国で何が売れ、どれだけ在庫があり、いくら利益が出ているか、一目でわかります。本社と地域事業会社の情報を共有し、データドリブンの経営判断が可能になりました。

――23年12月期の連結売上高(5704億円)、営業利益(542億円)、純利益(352億円)ともに過去最高でした。何と2年間に連結売上高が1・4倍になり、株式時価総額が1兆円を超えた。稀に見る快進撃の要因は?

富永 この5年間に何が一番変わったかといえば、廣田さん(前社長)のリーダーシップのもと、商品の販売にカテゴリー制を敷き、「デジタル×グローバル」の見える化が進んだこと。どこにフォーカスし、いかなる課題に取り組み、結果を出すか。全社最適の経営サイクルが回り出したことが大きいですね。23年の売上高は全カテゴリーで増収を達成。主力のランニングシューズは10%増収となり、特にインバウンドのある日本は25%増収を記録しました。

――売上高営業利益率も21年5・4%から23年9・5%に跳ね上がりました。

富永 現在、当社の海外売上高比率は80%を超え、欧州(1479億円)、北米(1146億円)、日本(847億円)の順です。コロナ禍を経てメーカーから消費者に直接売るEC(エレクトリックコマース)が大きく伸びました。23年EC売上高は1070億円。これは19年当時の4倍、全体の売上高の20%に達しました。ECの拡大を軸に、26年に営業利益率12%を目指します。

ECの原動力となったのは、当社のオンライン会員サービス「OneASICS(ワンアシックス)」です。2018年のスタート時は後発でしたが、マラソン大会への参加登録など独自機能を充実させ、23年には世界で945万人の登録を獲得。Sound Mind,Sound Bodyに必要な情報やサービスなどの提供を通じて、3年後は3千万人の会員を目指します。

――3月3日に行われた東京マラソンでアシックスシューズの着用率が38・9%(自社調べ)と、トップのシェアを奪還しました。

富永 17年にナイキが「厚底シューズ」を売り出し、競技用シューズは「ナイキ一強」になりました。当社は19年に「トップアスリートが勝てるパフォーマンスランニングシューズ」を開発する「C(頂上=CHOJO)プロジェクト」を立ち上げ、1年後にプロトタイプを完成させ、巻き返しを図った。21年以降、100人規模のアスリートが参加する「キャンプ」をアフリカや欧州で開設し、「メタスピード」などの製品のフィードバックや次世代トップ選手たちの育成・強化にも携わっています。25年には日本、北米、欧州の主要3地域でのパフォーマンスランニングシューズのシェア№1 になることを目指しています。

――1949年に創業されたアシックス発祥の地、神戸市のご出身ですね。

富永 先祖代々神戸に住み、祖父は鉄工所を営み、父は神戸大出身。私は、商船三井に勤める父の赴任地ニューヨークの小学校に4年間通い、帰国後は横浜のインターナショナルスクールの中学・高校でテニスに明け暮れ、日本のジュニア選手権にも出場しました。本気でプロを目指して米ニューメキシコ州の軍隊士官学校の奨学金を得てテニス留学しましたが、全く歯が立たず、プロは無理だと思い知らされました。やむなくポリテク(工科大学)に転校してIT技術を学び、卒業後は8年間アンダーセン・コンサルティングのニューヨークオフィスで働き、1996年に日本IBMに入り、17年間勤めました。

テニスシューズも世界シェア№1

世界最強のジョコビッチ選手からのプレゼント! サイン入りラケットとシューズを手に持ちポーズをとるテニス歴45年の富永社長。

――日本IBMでの主な仕事は?

富永 DX、IT関連のコンサルテーションでした。日本IBMでは毎年一人、若手を「社長補佐」に起用する人事があり、2000年当時の北城恪太郎さん(後に経済同友会代表幹事、国際基督教大学理事長)の社長補佐に選ばれました。その数年後にはアーモンクのIBM本社のヘッドクオーター(経営戦略)に派遣され、4年間仕事をしました。この二つは、私にとって得難い経験、勉強になりました。

――北城さんが「お師匠さん」?

富永 最近もお食事をご一緒しました。「よく事業会社の社長になれたね。よかった、よかった」と、たいへん喜んでくださいました。思い出すのは、北城さんが日本IBMとIBMアジア・パシフィックの両トップを兼務された当時、日本に対しては優しいけれど、アジア向けの顔は厳しかった。内外でメリハリの利いた経営のあり方を学びました。

私は18歳からずっとアメリカでしたから、皆さんと発想が逆で「アメリカも大したことない」と感ずることが多い。むしろ「日本は大したものだ」「チームワークや匠の技は日本にしかない」と断言できます。言い古された成句かもしれませんが、「和魂洋才」こそが、私が好きな言葉です。

――ランニングで頂上を狙う廣田会長のフルマラソンのベストタイムは3時間53分。ムンバイマラソンにも出たそうですね。

富永 テニス歴45年の私の部屋には世界最強のジョコビッチ選手のサイン入りラケットがあります。欧州のパドルテニスや米国のピックルボールの人気が追い風となり、テニスシューズの売り上げが大幅に伸びています。世界シェア№1を目指します。

(聞き手 本誌編集長 宮嶋巌)

   

  • はてなブックマークに追加