号外速報(7月23日 10:00)
2026年8月号
POLITICS
[号外速報]
by
安西巧

胸にグサリと刺さる自戒の書
敗戦から81年、今年も「八月ジャーナリズム」の季節が到来する。
広島への原爆投下日《8月6日》に始まり、長崎への原爆投下日《同9日》、さらに終戦記念日《同15日》へと続く半月の間、国内のマスメディアが一斉に取り上げる戦争や平和をテーマにした恒常的な報道ラッシュのことである。
筆者を含めジャーナリストの端くれの意識を有している者の中に、その意義を完全否定する向きは少ないと思うが、それでもこの数年、新聞から雑誌、テレビまで各メディアの報道姿勢を眺め、嵩じる一方の「パターン化」や「予定調和」の兆しを嗅ぎ取り、やり場のない不快感や自身の来し方を省みた上での居心地の悪さに襲われることがあった。
そんなモヤモヤした思いが去来していた筆者がつい最近、胸にグサリと刺さる著書に遭遇した。

渡邉恒雄主筆(左)の秘書時代の三山秀昭氏
『ヒロシマ、ナガサキ 隠された真実』(文春新書、7月20日刊)
著者の三山秀昭氏は読売新聞出身。ワシントン特派員、政治部長、渡邉恒雄社長時代の秘書部長などを経て、系列の広島テレビ放送の社長、会長を歴任し、現在は「在広島ジャーナリスト」を自称している。
同著で三山氏は「八月ジャーナリズム」を「『マスコミは八月には戦争や被爆関連特集を組むが終わると忘れてしまう』というマスメディアの一面を揶揄する言葉だ」と自戒を込めて説明した上で、さらに2025年は、そこに節目の年としての「八十年ジャーナリズム」が加わったと書く。
例年にも増して大量の戦争と平和の報道に接した結果として感じたのは、広島と長崎への原爆投下をめぐる言説にファクトの間違いが多すぎることであり、「不確実で曖昧な伝聞情報、さらには『後付け神話』と知ってか知らずか、面白くストーリーを仕立て上げたものまであった」と手厳しい評価を下している。

長崎型原爆「ファットマン」の模型の展示(長崎原爆資料館・長崎市平和会館HPより)
バラク・オバマ米大統領の広島訪問が実現したのは10年前の2016年5月27日――。
三山氏がこの歴史的イベントの「陰の演出家」であることは広く知られている。
自らホワイトハウスに出向き、薄氷を踏むような交渉を重ねてヒロシマの思いを伝えたリアリストだからこそ、被爆地・広島、長崎に関わる風説や俗説への抵抗が強いのだろう。
▼アメリカは本土決戦になれば失われるであろう百万人の米兵の命を救うために原爆投下を決断したのか?
▼原爆はなぜ小倉ではなく長崎に落とされたのか?
▼被爆者数が当時の人口より多いのはなぜか?
三山氏は同著で上記の疑問をはじめ被爆地にまつわる様々な伝聞情報のファクトチェックを行っている。
▽「百万人の命を救う」という正当化への誘導ロジックは、投下から1年後に苦し紛れに編み出された「後講釈」だった。
▽小倉への投下を断念し長崎に転じたのは小倉が曇りだったからではない。
▽原爆手帳の交付を受け被爆者と認定される基準と慰霊碑名簿に登載される基準が異なる「二重基準」が存在するため、「どうして当時の人口よりも多い被爆者数が存在するのか」といった憶測を呼んでいる
こんな風に舌鋒鋭く、筆者は風説・俗説に切り込んでいく。

折尾駅/国内初の立体交差駅として1916年に竣工。近代建築の巨匠・辰野金吾の設計との説も。写真は2012年撮影、駅改良工事のため同年解体された(筆者注、CC-BY-SA-3.0)
私事で恐縮だが、広島の3日後に投下された第2の原爆が「なぜ小倉ではなく長崎に」とのくだりについては、実体験がある。
6年前に92歳で亡くなった筆者の母は1945年8月の終戦時、運輸省鉄道総局(後の国鉄)の通信員として福岡県の折尾駅(かつての八幡市、現在の北九州市八幡西区)に勤務していた。当時18歳――。
多くの男性職員が戦場に召集されたため、主に若い女性がその任に着き、モールス信号で列車の運行情報の伝達を担っていた。その母から原爆の被爆者が命からがら列車で逃げてきた時の様子を幼い頃何度も聞かされた。
広島に約165km、長崎に約200kmというほぼ中間点に位置していた折尾は、筑豊炭田で採掘された石炭を軍需産業の拠点だった八幡製鉄所(現在の日本製鉄九州製鉄所八幡地区)や戸畑、小倉などの臨海工業地帯へ運ぶための輸送網(今でいう「サプライチェーン」)の重要拠点。鹿児島本線と筑豊本線が立体交差する駅だったこともあり、避難先を目指す双方の被爆者が押し寄せたらしい。
「全身真っ黒で煤だらけ」というのはマシな方で、服の裂け目から赤く焼け爛れた肌が覗き、息も絶え絶えの女性や子供を母は数多く見たと話した。
そして、話の最後はいつもこうだった。
「〝ピカ(母は原爆をそう呼んでいた)〟は小倉と八幡に落ちるはずやった。あの日この辺りが曇ってなかったら、あんたはこの世におらん」

昭和20年8月9日原爆を搭載した爆撃機が小倉上空に飛来した後、長崎に向かった出来事を、今までにない臨場感で追体験できる「360度シアター」(北九州市平和のまちミュージアムの動画より)
確かに、広島の次の2発目の投下目標は小倉だった。そして「1945年8月9日の小倉と八幡は曇り」と筆者は半世紀余り思い込んでいた。
しかし、三山氏のファクトチェックによると、8月9日当日午前10時時点における小倉の天気は「晴れ」(関門海峡を挟んだ下関測候所の記録)だった。
米軍の原爆投下機B29「ボックスカー」が長崎へ進路を転じたのはモヤと濃い煙による「視界不良」とされていたが、実はそれは天候のせいではなく、八幡製鉄所の工員がドラム缶のコールタールに火を着け、黒煙を空に巻き上げ煙幕を張っていたからだったのだ。
三山氏は2023年夏、煙幕に深く関わった宮代暁(みやしろ・さとる)氏に直接取材し、証言を得ている。
「自分らが煙幕を張ったせいで八幡、小倉は助かったが長崎の人に大変な迷惑をかけた」
インタビューでこう応えた宮代氏は翌24年に亡くなるまで生涯長崎を訪れることはなかったという。三山氏はそのことを「宮代さんの『心の澱』だったのかもしれない」と記している。