台湾有事の最前線「金門島」/中国大陸から「命の水」をもらう二つの顔/三山秀昭・ジャーナリスト

号外速報(7月5日 18:30)

2026年8月号 LIFE [号外速報]
by 三山秀昭 (ジャーナリスト)

中国大陸の厦門から4~5キロに位置する金門島(地図はWikipediaより)

アメリカとイランの14項目の「覚書」による「停戦合意」は、なお予断を許さない。ホルムズ海峡が日本人の暮らしのチョークポイントであることも変わらない。

中東からの原油、LNGは<ホルムズ海峡→インド洋→マラッカ海峡→シンガポール海峡→南シナ海→台湾海峡(台湾東岸を含む)>というシーレーンを通じて日本に輸送されていることは今後も大きくは変わらない。

その台湾海峡で戦後複数回にわたって中国と台湾が戦火を交えたことを若者はほとんど知らず、高齢者も戦後史の一コマとして忘れかけているのではないか。

6月中旬、「台湾有事の最前線」ともいえる台湾・金門島に出かけた。金門島に中国から水道水が送られていることを知り、無性に現地を訪ね、取材したくなった。

「敵に塩を送る」ならぬ「敵に命の水を送っている」のだ。

近年の事業なので、この事実はよほどの台湾専門家でないと知らない。「最前線」とされる金門島が持つ「二つの顔」をレポートする。

まず、地図をご覧いただきたい。サツマイモのような形をしているのが台湾本島。そこから西に200キロ離れた位置にあるのが金門島。中国大陸の厦門(アモイ)とは目と鼻の先にあり、4~5キロしか離れていない。私が訪れた時も金門島から厦門の高層ビル群が水平線の先に見通せた。

富士山より高い山が7つ、今年は「民国115年」

小金門島から見える厦門島の街(写真はWikipediaより)

金門島のルポの前に、知っているようであまり知られていない台湾ファクトを整理したい。

▽台湾は九州とほぼ同じ面積。九州の人口1270万人に対し台湾は2350万人、1千万人多い。

▽太平洋戦争開戦の日本軍の真珠湾攻撃時の暗号「ニイタカヤマ ノボレ」で有名な新高山(玉山、3952m)を始め、台湾には富士山(3776m)より高い山が7峰もある。本島東側に南北に連なる。このため台湾西側の平野部は人口密度が極めて高く、地方でも平屋の住宅は極めてまれ。

▽台湾から日本への旅行客(2025年)は年間676万人、4人に1人が日本を訪れている。日本から台湾への旅行客は148万人、人口(1億2300万人)比で1%台、日本の圧倒的な入超だ。

▽日清戦争の結果、1895年から台湾は日本の統治下にあり、太平洋戦争終了まで50年続いたが、住民は基本的には親日的。

▽中国での国共内戦(1945~49年)で毛沢東率いる共産党軍が勝利し、49年に中華人民共和国を建国、蒋介石率いる国民党軍は台湾に逃れ、それまでの中華民国を名乗った。

▽中国は元号を無くし、今は西暦だけだが、台湾は現在も公文書や行政文書では中華民国建国(1912年)以来の「民国○○年」(元号ではなく、紀年法)を使用。社会一般でも使われ、今年は「民国115年」となる。

▽国連加盟国のうち、中国を国家承認している国は181か国、台湾を承認している国は12か国だが、世界の大半の国は中、台双方と貿易している。

多少は日本語が通じると思いきや……

金門島の交差点に立つ「八二三戦役勝利紀念碑」(写真/筆者提供)

今回の私の取材目的地である金門島は、面積が香川県小豆島ほどの小島。台北市内の松山空港からプロペラ機で1時間10分、乗客は日本人も欧米人もゼロ。大半が金門島の住民か台湾本島人だった。金門空港には観光バスが待ち受けていたので本島からの観光客もある程度はいたようだ。

金門島は近年、戦跡観光で賑わっているが、日本人の観光ルートには入っていない。台北で事前取材したが、10年以上のキャリアのガイドでも金門島を訪れたのは一度だけ。日本人を案内したことは一度もないという。

私は「かつての日本統治の名残で、高齢者なら多少は日本語が通じるだろう」と、ガイドも通訳も同行せずに島に入ったが、自分の無知を恥じることになった。

日清戦争で日本は台湾本島と周辺の島嶼群を統治下に置いたが、金門島までは含まれず、日本語教育も行われなかったため、日本語は全く通じなかった。英語も同様だ。

しかし、さすがに台湾の一部、スマホを片手に翻訳機能を利用して、手間はかかったが、何とか取材はできた。

3度も「台湾有事」の主戦場となる

「古寧頭戦史館」。毛沢東の共産党軍に勝利した展示が強調されていた(写真/筆者提供)

ここで金門島が戦場となった「台湾有事」を整理しておこう。有事は国共内戦の最終局面を含めると計3回あった。

1回目は1949年10月、毛沢東率いる共産党軍は大陸のほぼ全域を制覇し、蒋介石率いる国民党軍は台湾へ撤退したが、その過程で共産党軍が金門島を砲撃、上陸した。

国民党軍が「古寧頭戦闘」で反撃し、共産党軍は補給や増援が続かずに孤立、国民党軍が防衛に成功した。「万一、金門島が陥落していたら、以降の台湾本島への侵攻の拠点になった。国民党軍が本島防衛の最前線として金門島を守り切った意味は大きい」(軍事専門家)との分析が多い。

結局、共産党軍は撤退、厦門から至近距離の金門島が台湾領土の一部として今日に至っている。ただ、これは国共内戦の最終盤と捉えられ、戦後の「台湾有事」にはカウントされないことが多い。

次は第一次台湾海峡有事とされる1954~55年。アメリカのダレス国務長官が台湾を訪問、蒋介石総統と会談したことに中国が反発、人民解放軍が金門島や馬祖島を砲撃した。

当時は冷戦下、朝鮮戦争終結直後でもあり、アメリカは台湾を「反共」の砦と位置づけ、台湾と「米華相互防衛条約」を締結、米議会も「Formosa Resolution」(台湾決議)を上下両院で可決、アイゼンハワー大統領に軍事力行使を含め戦争権限を付与した。

大統領は「台湾防衛」を明確に打ち出し、米政権は核兵器の使用までチラつかせるなど米中関係は極度に緊迫、中国は米中の正面対決を回避し、金門島の奪取を断念、台湾本島への侵攻には至らなかった。

3度目の第二次台湾海峡有事は1958年8月23日。中国人民解放軍が再度金門島に数万発にも及ぶ大規模集中砲撃を敢行した。これに台湾が反撃、本島からの海上輸送で補給を実施、中国側が補給を妨害、まさに台湾海峡での戦いとなった。

アメリカは米第七艦隊が台湾への補給支援で実力行使に踏み切り、抑止力を誇示たため、中国が撤退、全面戦争は回避された。

日本では「金門・馬祖事件」と言われるが、台湾では「金門砲戦」や開戦の日付から「八二三砲戦」とされ、金門島には現在も「八二三戦役勝利紀念碑」が道路の交差点に高々と建っている。

「大陸が見える観光の島」に変貌

軍事用の地下坑道は今や観光施設(写真/筆者提供)

金門島は3度も台湾有事の主戦場となったが、現在はどうかと言うと、島の各地に戦跡は数多く残るものの、それらはむしろ観光の対象となっている。

「古寧頭戦史館」では、国民党軍が如何に勇敢に戦い、共産党軍を撃退したかを強調する展示がある。

当時、島内に縦横に掘られた軍事用の地下坑道がそのまま残され、その先端では大型の双眼鏡で大陸を「監視」できる。

島のあちこちにトーチカや砲台、防空壕などかつての軍事施設跡が残されているが、それらは観光用戦跡だ。

金門島のシンボル的建造物の莒光楼(キョコウロウ)に登り、対岸の大陸・厦門の街を見るのが人気を集めていた。私が訪れた日は雨で視界は悪かったが、それでも肉眼で厦門の高層ビル群が見渡せた。

もちろん、金門島が現在も大陸との最前線であることには変わりがないため、「中華民国陸軍の金門防衛司令部」の部隊(約3千人規模)が駐屯している。しかし、かつて島全体が要塞(兵力10万人以上配備)だった頃とは様変わり。現地の空気は「国境防衛の最前線基地」から「大陸が見える観光の島」に変貌していると言っても過言ではない。

総延長28キロの「両岸共飲」プロジェクト

大型双眼鏡で中国の動きを「監視」(写真/筆者提供)

私が金門島に向かったのは「台湾有事の最前線」を見ることに加え、この島に大陸から命の水が送られていることを、数カ月前に知ったことがきっかけだった。

「敵対関係」にあるはずの大陸が「敵に塩」ではなく「水道水」を送っていることに興味を抱き、現地を実際に歩いてみたくなった。

この送水事業に関しては背景事情の解説が必要だろう。

▽金門島は雨量が少なく、季節変動もあり不安定

▽小さい島で河川が少なく、大規模ダムの建設は不可能

▽一時、地下水を汲み上げていたが、海水が混じり飲料には不適格

▽台湾本島から船で水を輸送するには200キロの距離があり、高コスト

▽海水の淡水化も高コスト…などの事情があった。

観光名所「莒光楼」から対岸の中国・厦門の街を見る観光客(写真/筆者提供)

そこで1995年頃から地元の金門県と中国福建省の「地方機関」の間で大陸から海底パイプラインで送水できないかとの実務的な協議が続けられた。

ただ金門県県長が、香港のような「一国二制度」の仕組みを金門島に適用できないかと提案したことも影響したが、中台双方の中央政府の了解を得られず、前に進まなかった。

台湾が馬英久総統の国民党政権(2008~16年)になり、中国と対話、融合路線に転換。2015年には習近平国家主席と馬総統による戦後初めて首脳会談(シンガポール)が開かれるなど、中台関係の緊張が和らぎ、経済交流も拡大し始めた。

その歴史的プロジェクトとして送水事業の具体化が進み、台湾の金門県、中国の福建省の地方機関同士で合意が成立。中台双方が工事に着手、2018年8月5日に送水が開始された。中央政府ではなく「地方」同士の合意という点がミソだ。

中国福建省の「山美水庫」で取水→「龍湖ポンプ場」から沿岸の晋江市に送水→海底パイプライン(約17キロ)を通り→金門島東端の「田埔水庫」で受水→浄化を経て金門島の住民の水道水になっている。陸上部分を含め総延長28キロのプロジェクトだ。

田埔水庫の受水施設のそばには大きな石碑が建ち「両岸共飲一江水」と刻まれていた。

「両岸」はもちろん中国と台湾のこと、同じ水を共に飲む、と言う意味だ。すぐ脇には受水された水を貯める大きな貯水池が広がり、満々と水を湛えていた。

現在、台湾の頼清徳総統(民進党)政権は、中国と距離を置き中台関係は悪化しているが、送水はこれまでの8年間止まることなく、金門島の水道水の8割以上を福建省からの送水が担っている。

水道水は依存しても電力供給は自前

中国から水道水を受水する「田埔水庫」と「両岸共飲一江水」の石碑(写真/筆者提供)

この事業を中国政府は「両岸融合の象徴」と位置付けているが、台湾政府は「あくまで生活インフラの問題」としており、双方の政治的な意味付けは玉虫色だ。

このためか「大陸から台湾に飲み水が送られている」事実を、地元民はもちろん知っていたが、金門島を訪れる観光客はほとんど関心がないようで、私が関連施設を訪れた際も、私以外誰もいなかった。

台北市に戻って何人かの台湾本島人に聞いてみたが、送水の事実を知る人はほとんどなく、中台関係に関心を持つ専門家以外は知られていないのが現状だ。台湾側が広報、PRを抑制しているようだ。

もちろん、この送水事業をもって「台湾有事」の可能性を否定したり、低いと見るのは早計だろう。

かつてのような軍事衝突になれば、中国側は即座に送水を止めることができる。「敵に水を送る」ことは「生殺与奪の命綱」を握っている」とも言えるのだ。

そこで「電気はどうなっているのか」も取材してみたが、こちらは大陸依存はなかった。島内にはディーゼル発電による発電所があり、近年は亜熱帯の太陽光を利用した再生可能エネルギーも普及している。

水道水と同様に中国・福建省から海底ケーブルで電気を供給してもらうことは技術的には可能だが、台湾政府には、その考えは全くない。

専門家に聞くと「水道は中国側に止められても一定期間は貯水や補給でカバーできるが、電気を止められると通信、ビジネス、軍事などあらゆる社会機能が即時ストップするため、安全保障上のリスクが大き過ぎる。社会インフラを守るためにも電気は台湾として自己完結する考えだ」と言う。

馬英九政権時代の「中台友好」を望む

満々と水を湛える「田埔水庫」の貯水池を取材する筆者(写真/筆者提供)

金門島の地政学上の現実は、台湾本島まで200キロ離れ飛行機で1時間かかるのに対し、大陸の厦門までは4キロと超接近していることに尽きる。

住民はフェリーで30分の厦門へ買い物や病院に出かけることもあり、大陸は本島以上に生活圏内にある。コロナ禍以降、双方の交流が減ったとは言え、大陸からの観光客が島の経済を潤す効果もあり、その回復を期待する声は強い。

島民が最も嫌うのは、台湾の中央政府が「独立」路線を強め、中台関係が緊迫し「有事」になることだ。島民の意識は、かつての馬総統時代の国民党政権当時のような「中台友好」を望んでいる。

一方、中国の習国家主席も台湾が独立志向を強めれば「軍事力行使も辞さない」と強調せざるを得ないが、第一次、二次の台湾海峡有事とは異なり、台湾本島より「親中的」な金門島への侵攻に軍事的メリットがあるとは考えにくい。

ウクライナや中東情勢を見ても、ドローンやミサイルなど「戦争の在り方」が様変わりしており、金門島という小島の軍事的価値は、かつてより小さくなっている。

地政学上、金門島は「台湾有事の最前線」であることは否定できないが、「中台交流の玄関口」でもあり、水道水を大陸に依存している現実は「単なる生活インフラの問題」以上の意味合いを持つ「金門島のもう一つ顔」を垣間見ることができた。

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著者プロフィール

三山秀昭 (みやま ひであき)

ジャーナリスト

元読売新聞政治部長。広島テレビ社長、会長など歴任。広島大学特別招聘教授。