2025年10月号
LIFE
[ウクライナ・ダイアリー]
by
古川英治
スタスとパーシャの音楽は戦禍に見舞われる街の潤いだった(2024年6月)
夏の夕暮れ時、キーウ歴史地区の名所「黄金の門」の前でミュージシャンのスタスが独りでアコースティックギターを奏でていた。彼の姿を見るのはほぼ一年ぶりだ。「久しぶりだね。バイオリニストの相棒はどうしたの?」と声を掛けると、思わぬ答えが返ってきた。
「パーシャは2024年の7月4日に亡くなった」
空襲の犠牲になったのか、戦死したのか。そんな考えが一瞬頭をよぎった。しかし、パーシャは自ら命を絶っていた。「長引く戦争のせいかもしれない……。ぼくは彼の深刻な鬱状態に気付けなかった」と、スタスは唇をかんだ。
スタスとパーシャは10年にわたり黄金の門周辺を拠点にジャズやボサノヴァを演奏し、街の生活に彩を与えてくれた。手元に彼らの姿を撮った写真が何枚かある。最初の写真は、ロシアの侵略直前の22年2月、小雪が舞うなかで演じている。
次の写真は22年7月まで間が空いた。侵略が始まった時、2人は国外で家族と休暇中だった。同年6月に帰国したのは、キーウで活動を続けたいというパーシャの強い希望だったそうだ。黄金の門で久しぶりに彼らの音楽を聞いたとき、街に日常が戻ったように感じたことを覚えている。
23年のクリスマスイブの動画もある。ロシア軍のインフラ攻撃により、エネルギー供給に不安が高まっていた時期だ。雪景色をバックに2人は街のムードを高めるように、情緒たっぷりに「マイ・ウェー」を弾いた。赤い防寒着に身を包んだ少女が音楽に合わせて踊り出す様子も映っている。
最後の一枚は24年6月23日、パーシャが亡くなる少し前に撮っていた。
2人は街の空気を肌で受けながら活動してきた。「22年の雰囲気は最高だった」とスタスは語る。「侵略者に打ち勝つという一体感に溢れていて、みな音楽を欲していた」。ウクライナ軍はキーウ州から敵を撃退、秋には北東部ハルキウ州と南部ヘルソン市をロシア軍から解放し、多くが早期の勝利を信じていた。
しかし、23年後半から24年にかけて人々の気持ちが落ち込んでいくのを2人は感じた。南部の奪還を目指した反転攻勢が失敗し、欧米の支援も滞るようになり、「侵略者を追い出し、戦争を終わらせるという希望がしぼんでしまった」とスタスはいう。パーシャはそんな陰鬱な空気に飲み込まれてしまったのだろうか。
スタスはパーシャを失ってから7か月間、ショックでギターに触れることもできなかったという。それでも子供を授かったことをきっかけに再起に踏み出す。「親友の代わりに娘が生まれてきたように感じた」。そんな思いを明かしてくれた。
独りの演奏には不安もあった。最初は黄金の門ではなく、人通りの少ない場所でギターを弾き、少しずつ自信を取り戻していく。「22年ほどではないけど、街のムードも昨年よりは良い」とスタスは話す。「この先どうなるかは見えない。でも、みなそこは考えず、いまを生きようとしている」
2人が好んでいた曲がある。ブラジルを舞台にした1959年の映画「黒いオルフェ」のテーマ曲「Manhã de Carnaval(カーニバルの朝)」だ。「その場の雰囲気次第で、調子が良い時に演奏した。ロマンチックに奏でたり、リズムを強調したり、パーシャとの掛け合いで毎回、曲調が変わるんだ」
スタスはその日の演奏の最後にその曲を弾いた。友を懐かしむように、しっとりと。そして、前向きな強さも感じる音だった。