2025年3月号 BUSINESS [リーダーに聞く!]
1958年大阪府生まれ。中央大学文学部卒業。大学・社会人ラグビー選手として活躍。神戸製鋼傘下の神鋼海運から90年に大和ハウス工業入社。中国の大連赴任を経て2011年取締役、17年11月から現職。住宅生産団体連合会会長、大阪商工会議所副会頭を兼ねる。
――4月に開幕する2025年国際博覧会(大阪・関西万博)に何を期待しますか。
芳井 1970年の大阪万博には家族と行き、学校や塾、町内会からも行きました。全部で10回です。「50年後の日本」がテーマの「三菱未来館」には胸が躍りました。70年万博で展示していた夢のような最先端技術が現在ではいくつも実用化されています。今の子どもにも大阪・関西万博を見てもらい、未来を信じ、楽しみにして育って欲しいです。社員とその家族も万博会場に足を運んでいただきたい。実際の体験は何物にも代えがたいですから。私自身は今回も10回行きたいです。
――是非見たいものは何ですか。
芳井 イタリアパビリオンにバチカン市国が出展するカラヴァッジョの代表作「キリストの埋葬」や超巨大スクリーンを備えた韓国パビリオン、中国古代の書物「竹簡」をイメージした中国パビリオンなどは魅力的です。建築屋なので各パビリオンの建て方や工期にも関心があります。
――パビリオン建設の遅れが一時期、指摘されていました。
芳井 完全に追いついたと思います。先日、万博会場を視察した際はドタバタした雰囲気がなく、余裕を感じました。当社は「電力館」「いのちの遊び場 クラゲ館」「ブルーオーシャン・ドーム」を手掛けました。様々な素材を扱い、難しい箇所もありましたが、私たちの技術力も日々、向上しています。日本の建築物は品質がよいので万博後も有効に使えます。コスト面のメリットも追求しながら、溶接をボルト留めに切り替えてリユースに備えるなどの工夫も凝らしました。循環、回収、再生といった発想は今後の建築や都市開発に影響を与えるとみています。
――万博の前売り券の売れ行きが芳しくないと伝えられています。
芳井 最近の選挙ではありませんが、SNSの発信で様相は大きく変わると思います。実際に開幕すれば一気に盛り上がるのではないでしょうか。
――副会頭を務めている大阪商工会議所は全力で万博を牽引しています。
芳井 大阪・関西万博のメインキャッチコピーは「くるぞ、万博。」です。「食の都、大阪」ですから大商はさらに「くうぞ、万博。」を掲げました。
――大和ハウス工業と大阪マルビル(大阪市北区)は万博向けシャトルバスのターミナル用地を無償貸与します。
芳井 以前、JR大阪駅前の大阪マルビル建て替えを決算記者会見で発表すると、質問がマルビルに集中し、あの建物がどれだけ大阪の皆さんに深く愛されているのかを痛感しました。創業者の石橋信夫相談役は奈良県・吉野の生まれですし、当社は大阪というフィールドに育ててもらった会社です。創業者は「大阪・関西への恩返し」を常に意識していました。樋口武男名誉顧問(元社長・会長)は「大阪が1丁目1番地だ」と口癖のように言っています。建て替えを通じて感謝の気持ちを伝えようと、「2025年日本国際博覧会協会」にバスターミナルの土地無償貸与を申し出ました。子どもに夢を与える万博への協力を誇りに思います。
――建て替えへの反響はどうでしたか。
芳井 ビルに入っていた大阪第一ホテルでプロポーズや挙式をしたという方たちが懐かしんで営業終了前にたくさん来ました。大阪マルビルの吉本晴之社長がかつてのお客さんを安い特別料金でホテルに受け入れていたようで、立派な対応でした。私は高校時代のラグビー部仲間を集めて食事会を開きました。大阪第一ホテル従業員のうち希望者は大和ハウスグループのダイワロイネットホテルに移り、即戦力で活躍しています。人手不足ですからとても助かります。つい先日もあるロイネットホテルで大阪第一ホテルの元スタッフを見かけ、「久しぶり」と声をかけたばかりです。
――大阪マルビル解体の技術的課題は。
芳井 現場は大阪屈指のビジネス街ですから絶対に、周囲に迷惑をかけられません。ビルの中心に垂直の貫通穴を開け、外周側から少しずつ崩して、がれきを穴から下に落とす工法を採用しました。コストはかさみましたが、安全対策を最優先しました。
――ゼネコン準大手のフジタを傘下に収め、ハウスメーカーでゼネコン、かつデベロッパーという独特の業態です。
芳井 前任の大野直竹社長は「ハウスメーカーの心を持ったゼネコン」と表現していました。B2Bではなく、あくまでもB2Cの会社です。社名から「ハウス」を外さないのはこれが理由。「工業」を残しているのは決してモノ作りから逃げない、商社にはならないという覚悟の表れです。
――大成建設の社長を務めた村田誉之さんを副社長に迎えました。
芳井 大手ゼネコンに歴史では勝てませんが、売上高では差をつけることができました。優れた経営者・ビジネスマンから自分の経歴書に「大和ハウス工業」と書き加えてもよいと判断される会社、転職先に選ばれる会社になれた、と自負しています。
――関西企業で連結売上高が5兆円を超えるのはパナソニックホールディングスと大和ハウス工業だけです。
芳井 私たちには創業から100年となる2055年にグループ売上高10兆円という目標があります。24年3月期5兆2029億円を達成し、25年3月期は5兆3700億円を目指しています。まだ目標値の半分ですが、その先に10兆円が見えていないと5兆円をゴールにして歩みが止まってしまいます。現状だと6兆円はクリアできるでしょう。やり方を間違えなければ8兆円を達成できる40~50代のメンバーが育ってきました。企業の成否は人で決まります。
――グループ会社が497社(24年3月末時点)あります。
芳井 樋口名誉顧問は「グループ会社が大和ハウス本体に頼っていては駄目だ」と言って各社に自立を求めました。先頭を切ったのが大和リースの森田俊作会長です。仕事の幅を広げ、万博会場ではリング型大屋根の屋上緑化工事を請け負っています。賃貸住宅の大和リビングは8~10戸程度でスタートし、今では60万戸を突破しました。毎月入る家賃のキャッシュは次の成長投資へとまわせます。グループの力はずいぶんと強くなりました。
――猛スピードで事業範囲が広がっている。グループのまとまりは維持できますか。
芳井 私たちには創業者の石橋信夫相談役という大きな柱があります。迷った時、つまずいた時は、いったん原点に戻って体勢を立て直します。こうやって再スタートをきれる会社こそが本当に強い会社だと思います。
■ 聞き手/竹田忍 産業ジャーナリスト