新連載/シン・鳥獣戯画『吾輩は鹿である』/松田裕之・日本生態学会元会長

「鹿・人戦争」軍師がいない

2024年8月号 LIFE [シン鳥獣戯画]
by 松田裕之(日本生態学会元会長)

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複製・寺本英

吾輩は鹿である。前号の熊と違い、我々は草食獣で、人を食うことはない。だが、農林業被害額は1位の我々と2位の猪で全鳥獣の65%を占めており、鹿害は今も年々増え続けている。我々は先史時代から狩猟の獲物とされ、農地では人と我々の知恵比べだった。

牡(お)鹿は角を生やし、雌を巡って他の雄と争う。角は毎年生え変わり、齢とともに立派になる。鹿角またはその生え始めの鹿茸は漢方薬として人間に利用される。強い雄は多くの雌を従えるハーレムの主となる。半面、牡(お)鹿の死亡率は雌より高く、生まれたときは雌雄ほぼ同数だが、成獣は雌が多くなる。

我々は1.5歳で成熟し、2歳からほぼ毎年出産する。アメリカにいるオジロジカと違い、めったに双子はできない。寿命が尽きるまで出産は続く。知床岬にいる仲間の数を数えたところ、年率2割で増え続けたという。子供の生存率は少し低いが、牝(め)鹿の自然死亡率は1割以下で、0に近い。エゾシカの雄は150キログラムにもなる大型獣だが、早熟で、年率2割増加なら4年で倍増、13年で10倍に増える。

明治時代から1970年頃まで、知床半島に我々はいなかった。当時、日本中で人間は我々を保護してきた。それが、90年頃には増えすぎが問題とされ、駆除の対象とされた。それでもなお増え続け、2005年に知床が世界自然遺産に登録されたのち、世界遺産の地で人間が我々を獲ることになった。審査するユネスコもそれを認めた。

一、 鹿威(ししおど)しでは効果がない

スギ人工林におけるシカの剥皮被害(滋賀県多賀町、林野庁HPより)

我々を含む有蹄類の姿は、クロマニヨン人の洞穴壁画に描かれた。古墳時代の埴輪にも我々が登場する。農作が始まると、人間は農地に鹿垣(ししがき)を作って防いだ。日本庭園の鹿威しは農地の鹿や猪を脅かす道具だったといわれる。けれども、先祖があの程度の音に怯んでいたとは考えにくい。

我々と萩は万葉集の常連である。たとえば柿本人麻呂の歌に「さを鹿(しか)の、心(こころ)相(あひ)思ふ、秋萩(あきはぎ)の、しぐれの降るに、散らくし惜(を)しも」とある。牡(お)鹿が雨の多い秋に咲く萩を思う歌だが、我々にとって萩は鑑賞用でなく食べ物である。花札に鹿と紅葉が描かれ、紅葉も好物だ。首が届く高さまで、森の葉を食い尽くし、森の見通しを一変させる。花札にある猪と萩の関係は、猪に聞くがよい。我々の鳴き声は山によく響く。そのため縁起が良いとされ、鹿鳴館など宴会にちなむ用語となった。

市街地に出没するシカ(国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所北海道支所)

江戸時代には、特に東北地方で人間は我々を大量捕獲した。秋田県の男鹿半島はその名の通りもともと我々の住処だった。しかし、室町時代から乱獲されて激減した。それが半世紀後の元禄年間には増え過ぎて農業被害が深刻になり、18世紀に11回の駆除作戦で根絶されてしまった。

それから今日まで、東北地方に我々は少ない。ただし、宮城県の金華山にはたくさんいる。厳冬年の1984年と97年に大量死が起きた。我々は過密になっても増え続け、好みの草を食いつくす。洞爺湖中島では落ち葉まで食べていたという。

こうして、我々は農林業被害だけでなく、天然林の景観をも一変させる。奈良県大台ケ原の正木峠のトウヒ林は63年には鬱蒼とした森林だったが、97年には明るい森に変わり、今世紀にはもはや枯れ木の山になってしまった。

奈良の鹿は神の使いといわれていたが、森が壊れることがわかり、個体数調整が行われた。大台ケ原は、釧路湿原と並ぶ環境省自然再生事業の目玉である。

そんなわけで、生態学者は我々鹿のことを生態系エンジニアという。ビーバーは彼ら自身にも都合よく自然を改造するが、我々は草を食い尽くし、自ら大量死を招く。自然を放置すればバランスよく安定するというのは幻想である。

天敵の狼が絶滅したせいでもある。しかし、屋久島にはもともと狼はいなかった。7千年前の鬼界カルデラの大噴火で生態系がほぼリセットされて以来、ヤクシカの天敵は人間だった。その人間が狩猟をやめた。80年頃におそらく2千頭程度だった屋久島の仲間は数万頭に増え、世界遺産屋久島の固有植物の多くを食い荒らした。植物分類学会が、屋久島や南日本、西日本で、我々のせいで絶滅する植物が相次いでいると悲鳴を上げた。

狼だけでなく、昔は山に野犬や放し飼いの犬がいた。夜も活動する我々には脅威だったが、犬も減り、我々は安心して草を食べることができる。熊の生息地に犬を放つことが危険という人間の理屈はよくわからないが、我々にとってはありがたい話だ。最近の脅威は熊の待ち伏せだが、我々の方が素早く、彼らは我々の死骸を食べる腐肉者にすぎない。

二、 我々を減らすことはできまい

ツノを突き合わせるシカ(林野庁HPより)

北海道のエゾシカだけで2022年度に56~125万頭と推定され、真の数はよくわからない。捕獲数はわかる。また生息数の増減もある程度分かる。北海道では毎年秋の夜に市町村ごとに猟友会がライトを照らして道路沿いにいる我々の目を数えている。屋久島では調査会社が我々の糞粒を数えて生息数を推定している。ライトを照らしてわかるのは増減のみであり、北海道では捕獲数と増減傾向から生息数を逆算している。

生息数を精度よく推定し、自然増加数と捕獲数を等しくすれば、その生息数で維持できる。空調はサーモスタットを使い、気温が上がれば作動し、下がれば切ることで、一定の幅に室温を維持する。空調は部屋の断熱性能などがわからなくても、サーモスタットがあれば室温を調整できる。それと同じく、増減がわかれば、生息数を一定の範囲に維持できるはずだ。

猟師は安定した捕獲数を望む。多い時にたくさん捕り、少ない時に保護すると、捕獲数は生息数以上に変動する。これは漁業でも同じだ。北海道では多い時に牝(め)鹿を多く捕り、少ない時に一夫多妻の牡(お)鹿を捕る計画だ。牡(お)鹿は立派な角があるから、猟師は雌雄の見分けがつく。これは鮪や熊ではできない。

北海道では1998年から、屋久島では2012年からこのような管理を始め、我々の生息数を減らそうとしている。とはいえ、禁猟区も多い。最初は我々も油断していたが、今では猟友会のジープの音と観光客の自動車の音を聞き分ける。ジープなら逃げるが、観光客は怖くない。半世紀前はハイカーと我々の遭遇は一日に何度もあるものではなかった。今では我々の方が多いので、林内で我々が人間を見る回数より、人間が我々を見る回数のほうがずっと多いだろう。

禁猟区が随所にある。特に猛禽類生息地は銃声で邪魔しないよう配慮しているらしい。人間にとっては、猛禽類を守ることが我々の農林業被害や絶滅危惧植物への食害より重要らしい。我々は、そこが禁猟区や狩猟自粛区域と呼ばれていることは知らないが、どこにいれば安全かを経験から知っている。

過去に何度か、猟師が森林管理署職員を誤射する事故が起きた。職員の安全のため、国有林では狩猟できなくなる。それならばと、職員がいない週末だけ猟師に開放した。まだ証拠はないが、我々も平日の行動圏を週末とは変えるだろう。

我々は群れて行動する。一頭狙撃されれば、銃声とともに他の鹿は逃げる。我々草食獣が群れるのは天敵対策だ。一頭でいるより、群れたほうが一頭当たりの死亡率が少ない。

米国ではサイレンサー(sound suppressor)を使うらしいが、日本では銃刀法で禁じている。機関銃も論外だ。道路での発砲、日没後と日の出前の夜間発砲は、2015年施行の鳥獣保護管理法改正で一部可能になった。

猟師の数は減り、超高齢化が進んでいるが、我々の数は順調に増えている。もはや、今の人間には我々の生息数を減らすことはできまい。大邸宅を学生下宿用の空調機で冷やそうとするようなものだ。23年7月の北海道エゾシカ対策有識者会議では、年に牝(め)鹿を全道合計で14万~23万頭以上捕らないと生息数が減らないと指摘され、同日資料2の捕獲推進プランでは全道で11万頭の目標を掲げている。つまり、目標段階で減らすことができないとわかっている対策が続いている。猟師にとっては、持続可能に報奨金を貰い続けることができる制度だ。

知床は世界遺産だが、「しれとこ100平方メートル運動」で植えた稚樹を我々が食ってしまい、2007年に方針転換して、捕獲に乗り出されてしまった。それ以来、知床の草花が豊かになった。11年には最奥の知床岬に捕獲用の巨大な柵が張られた。いったんは劇的に我々の数を減らされたが、この10年ほどはまた増えている。

昔、自衛隊がトドを捕ったことがあるが、野生鳥獣管理に自衛隊が出動するには、法改正が必要だ。人間はまだいくつか手段を持っているが、法律を変えない限り使えない。立法者に現場感覚がないことが、人間社会の限界だ。

三、 まだまだ需要の少ないジビエ料理

明治時代には、北海道だけで鹿が10万頭以上捕られた年がある。鹿肉を缶詰にして輸出しようとしたらしい。全国各地で、野生の鹿肉のジビエ料理が売られている。しかし、まだまだ需要は少ない。生肉は感染リスクがあるので厳禁だ。昔は毛皮も利用されたが、今では皆無に近い。全国の捕獲した鹿の有効利用率は2割未満といわれている。

結局、利用しなくなれば、増えすぎを止めることも難しい。昔は人間のほうが賢いと思っていたが、我々が増え続け、農林業被害も増え続け、自然公園の植物も食い続けている。獣害が決め手となって離農する過疎地の農家も多い。ということは、江戸時代とは異なり、鹿・人戦争で、人間側に軍師がいない。我々野生動物が人間との知恵比べに勝っているといえるだろう。

[謝辞] 原稿執筆にあたり、酪農学園大学伊吾田宏正准教授、北海道大学上野真由美准教授、麻布大学南正人教授、麻布大学高槻成紀名誉教授の助言、屋内恭輔氏の「たのしい万葉集;鹿(しか)を詠んだ歌」サイトを参考にさせていただきました。

また、原稿執筆にあたり、参考とした情報を個人サイト

https://ecorisk.web.fc2.com/FACTA-Froricking-Animals.html

に掲載しています。

著者プロフィール
松田裕之

松田裕之(まつだひろゆき)

日本生態学会元会長

1957年福岡県生まれ。麻布高校、京都大学理学部、同大学院博士課程を卒業(理学博士)、日本医科大学助手、中央水産研究所主任研究官、九州大学理学部助教授、東京大学海洋研究所助教授、横浜国立大学大学院教授を経て、同大学学長特別補佐。専門は生態リスク学。日本生態学会元会長、日本海洋政策学会理事、アースウォッチジャパン理事。屋久島世界自然遺産登録地科学委員

   

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