子どもたちをネットから取り戻せ
2020年1月号
LIFE [病める世相の心療内科㊱]
by 遠山高史(精神科医)
絵/浅野照子(詩画家)
登校を渋る子どもたちの多くが、クラスの仲間のいる教室に入るのが苦痛であるという。同じ宿題、同じ試験問題で出来不出来による差別化が起こる。同じ年齢を一律に集めると成績順が歴然としやすく、クラスの仲間は友達である以前に競争相手となってしまうのだ。アメリカには例えば1年生から6年生までを1つにまとめた縦割りクラスで教育する学校がある。そうした環境では子どもたち相互の関係がパターン化せず、より多様になる。上級生は自ずと下級生の粗暴な行為を抑止し、弱い子どもを保護しようとするため不登校やいじめは起きにくい。1軍、2軍、3軍カーストといった格付けをしあう「スクールカースト」も生じにくいだろう。
以前にも述べたが、ある大学の非常勤講師として介護系資格を取得するための講座を受け持った。実に教えやすいクラスであった。通信教育で高卒資格を得た不登校気味の生徒や、失職し第二の人生を始めようと社会人枠で通う中年の男、風俗で働くシングルマザー、夜の仕事でダメな亭主を支える主婦――。教室では多様な経歴をもつ人々が互いに協力しあう光景が常にあった。若い学生は社会人のクラスメートから教科書では学べない人生のリアルな経験を教わっていた。出席率は高く、同年代だけ集めたほかの授業にある私語も、ほとんどなかった。そこにはにわか作りとはいえ、多様な生き方を学習できる、豊かなコミュニティができていたと思われる。
不登校に陥りやすい子供たちは、多様な価値観が許容されるコミュニティ経験に乏しいことが多い。平等を掲げ、均一を是とする価値観を押し付けられると、どうしていいかわからなくなりやすい。適応の程度によって序列化されることを嫌い、引きこもるようになる。ネットは窮屈な現実に辟易する子供たちの前に開けたいわば別天地である。ネットやゲームのコミュニティにひとたび入り込めば、いかような生き方も許される自由があり、常に主人公であり続けられる楽園が広がる。労せずして脳の快楽中枢を満足させうるのである。しかし、そこは多様性に富むように見えて、パターン化された関係の繰り返しの世界でしかないことに思い至らない。
ネットの情報はほぼ視覚情報に特化しているが、人の視覚はたった4個しかない受容体の組み合わせで情報を認識する。その単純さゆえ、簡単に人を分かった気にさせてしまう。しかし、視覚は自然の一部としての人間の営みを表面的にしか把握できない。いまだファジーさをAIが取り扱えないことからもわかるようにネットはファジーさを本質とする自然の把握にさほど有効な手段ではないのである。
実は鳥類を除くほとんどの動物は視覚以外の感覚で世界を把握している。例えばネットが苦手とする嗅覚情報は、人間で400、象に至っては2000もの受容体の組み合わせで把握される(東原和成東大教授)。それによって認識される世界は、視覚だけで感じ取る世界よりはるかに豊かで奥深いはずである。息子の顔を認識できない認知症の老人でも匂いには正しく反応することはよく知られている。実際、人と人との触れ合うコミュニティはさまざまな匂いに満ち(ほとんど無意識だが)、それが相互の深い繋がりを生んでいる。電気信号でしか結ばれないネットの世界は本当の自然からほど遠く、貧しい。ネットから子供たちを取り戻さねばならない。