ファンケル創業者 池森 賢二 氏

高齢の創業者が描いた事業承継の成功モデル

2019年10月号 BUSINESS [ファウンダーに聞く!]

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池森 賢二 氏

池森 賢二 氏(Kenji Ikemori)

ファンケル創業者

1937年生まれ。戦時中に疎開先で父を亡くし、苦労を重ねる。37歳で起業するも倒産。80年無添加化粧品の販売を1人で開始。81年ファンケル設立。2005年に名誉会長に退いたが、13年経営再建のため復帰し、V字回復に成功。9月6日創業一族の株式をキリンHDに売却。

――創業一族が保有する株式33%(議決権割合)を1293億円でキリンホールディングス(HD)に売却しました。

池森 日本人男性の平均寿命は81歳。今年82歳になった私はいつ死んでもおかしくない。突然、私がいなくなったらファンケルはどうなるのか、真剣に考えてきました。気になるのは、私を支えてくれたかけがえのない社員、役員のことです。65歳(2003年)で社長を退き、現場を離れたら業績が衰退してしまい、社員に心配をかけました。創業者として倒産させるわけにはいかないと、6年前に恥を忍んで代表権を持つ会長に復帰し、創業の精神に立ち返る経営再建に取り組みました。運よくインバウンドの追い風も吹き、売上高は15年3月期の776億円から、4年後の前期は1225億円(58%増)になり、株価も復帰前の6倍に跳ね上がりました。V字回復に成功したとはいえ、時代の変化は目まぐるしく、業績を伸ばし続けるのは至難の業です。

磯崎キリン社長の器の大きさ

――創業家が保有するほぼ全ての株式を譲渡しました。よく思い切りましたね。

池森 私の親族には事業承継者がなく、将来的に持ち株が分散する懸念がありました。私が元気なうちにファンケルの独立性を尊重してくれる大きな会社の傘に入ることが、企業存続と社員の幸せに繋がるとの確信に至りました。高齢となった創業者が描いた事業承継の成功モデルと報じられた時は嬉しかったですね。

――キリンHDを選んだ理由は?

池森 キリンさんは日本を代表する優良企業であり、規模も当社の15倍もあります。以前より、品位のある行儀の良い企業であると、好印象を持っていました。

私が(キリンの)磯崎(功典)社長に譲渡を申し出たところ、ご快諾いただき、その後もファンケルを「知れば知るほど本当に良い会社」と高く評価してくださいます。これならお互いの強みを活かして、ともに成長できると安心しました。

――どんな相乗効果がありますか。

池森 両社が持つ独自素材、技術力、研究開発力、強いブランド力を活かせば、美と健康の両分野で、新しい製品や事業を、スピード感を持って生み出していけるはずです。そもそもカニバリがなく、お互い補完し合える販売力もあります。真面目でおだやかな社風もよく似ており、新しいものを創出するためにも、とても恵まれた環境になると思います。

――なぜ、キリンとだけ交渉したのか。

池森 当社のブランドイメージを考えた時、価格を競わせるような売り出しはしたくなかった。私が好きな会社に自ら提案して買っていただいた。それだけです。当社の「池森塾」のように、キリンさんも経営者育成塾を行っており、その幹部候補者の中から、今後の成長戦略を考えた時、ファンケルと組んだらよいという意見が出ていたそうです。その話を聞いた時、我ながら誇らしく思いました。

――役員や社内から反対意見は?

池森 意見も何も聞いていません。これが最高の道だと、私が自分で決めたことです。もちろん役員は賛同してくれました。何より重要なことは、キリンさんは3分の1未満の持ち株で、上場企業としての当社の経営の独立性が維持されることです。

資本業務提携で接したキリンの皆さんはとても低姿勢で、どの分野でも礼儀を重んじ、上から目線や高圧的な態度をとることは皆無でした。本来、私から株を買ってくださいとお願いしているのに、当社のことを気遣ってくれます。磯崎社長の器の大きさをつくづく感じました。

記者発表後、私の思いを綴ったメールを全社員に発信し、ほとんどの社員から返信をもらいました。「社員のことをここまで考えてくださって幸せです」「キリンと人材・風土が似ていると聞いて安心しました」「キリンの傘下に入ってもプライドを持ってやっていきたい」――。私より50歳も若い社員のメールに、涙がこぼれました。

若手起業家を応援する投資会社

――「人生100年時代」です。創業者利益を活用して、何をしますか。

池森 小学3年の時に疎開先の新潟で電気技師の父が感電事故死し、5人の子どもを残された母は農作業の手伝いや縫い物など、どんな仕事でもしました。しかし、生活は楽にならず、母は3人の子どもを連れて東京に働きに出、私と二つ年下の弟は祖父の家に残された。中学3年の時に母に呼ばれて上京し、卒業後はパン屋の住み込みで働き、定時制高校に通いました。短大の通信教育で学んだが、仕事が忙しくて卒業できませんでした。

37歳の時、脱サラでアイデア雑貨販売のボランタリーチェーンを出資者17人と設立したが、経営陣の意見がまとまらず倒産。個人保証していた2400万円の借金だけが残りましたが、兄が経営していたクリーニング店の夜間営業で身を粉にして働き、2年余りで返しました。私がどんな苦労も苦労と思わないのは、7年前に97歳で亡くなった母の姿が、目に焼き付いているから。父を亡くした翌年に生まれた末弟を「行夫」と名付けた母の無念は如何ばかりだったでしょう。

当社のルーツとなる無添加の化粧液の販売を1人で始めたのは1980年。この時、元手は24万円しかなかった。翌年ファンケルを設立した時、42歳になっていました。経営のノウハウに乏しく、たいへん苦労したが、多くの方々に支えられて成長することができました。私には世の中への感謝の気持ちが強く、これから起業する人たちが無駄な苦労をしなくて済むよう、何かお手伝いできないものかと考えて、昨年11月「池森ベンチャーサポート合同会社」を設立しました。

――どんなスキームですか。

池森 若手起業家を応援する投資会社。ファンドの期間は通常10年ですが、もっと中長期で面倒を見ようと思います。投資のモットーはワクワク感。私は創業以来、絶対に人の真似はしないことを信条にしてきました。「人の真似はしないぞ」と、心に誓っていれば、仕事のアイデアはいくらでも浮かんでくる。社会に対して意義深いインパクトを与える起業家が100社に一つでも出て来てほしいものです。(聞き手/本誌発行人 宮嶋巌)

   

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