病める世相の心療内科㉛

「茶色いバッタ」が減っている

2019年8月号 LIFE [病める世相の心療内科㉛]
by 遠山高史(精神科医)

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絵/浅野照子(詩画家)

クリニックには子供から大人までおびただしい数の心が落ち込んだ人々がやって来る。

20代の公務員は上司から「使えないね」と一言いわれ、出勤できなくなった。聞いてもろくに教えてもらえなかったと彼は言う。しかし上司も忙しいから、もっと要領よく聞けと思っていたようである。

子供がSNS上でいじめられ不登校になったのは教師の対応が悪いせいだと、親に責められた若い女性教師は出勤できなくなった。子供はクラスメイトから「嫌な奴だ」といったひどい言葉をSNSで送られたようだが、彼女が調査委員会を開かなかったことを非難されたという。

機械メーカーの課長はあるアジアの日系企業に設えた機械の不具合を責められた。機械は毎日調整を必要とする不安定さが生じていた。取り換えれば済むことだが、日本人の工場長はあくまでメーカーの社員が現地に常駐し、日々調整することを要求し、折り合おうとはしなかった。意地悪としか言いようがなかったが、他からも寄せられる様々なクレームに対応するうち、家でも緊張が解けず、酒浸りになり、休むようになった。

ある真面目な総務課の主任は、社員の勤務先や給与についての要望を会社に代わって交渉する立場で、社員たちの不満を直に受けることが多く、眠れぬ日が続いていた。ある日、電車で肩が触れた男に言い知れぬ怒りを感じた。男が電車を降りた時、彼が降りるべきではない駅に無意識のうちに降りてしまった。その時、男を追いかけホームから突き落とそうとする衝動にはたと気づき、我に返ったという。

こういったストレス状況は学校でも会社でも起こりうることで、避けては通れない。ただ、私のような戦後のどさくさの中で群れて育ったオールドボーイには、その多くが辛抱すれば何とかなりそうなのに、耐えきれない人が昔より多くなっているように思えてならない。

トノサマバッタには小ぶりで茶色いものと、大柄で優美な緑色のものがいる。違う種と思われていたがDNA上は変わらず、育った環境が違うそうだ。餌の少ないところで群れて育つと小ぶりだが高く遠くまで飛翔できる茶色いバッタとなる。餌が豊富で群れずに育つと、大柄で美しく優美な緑のバッタとなるが飛翔力は弱く、高く飛べない。

さて、私もこれまで人並みに様々なストレスと戦ってきた。中学時代のクラスには、時に教師の胸倉まで掴み、番長風を吹かすやくざの息子、知的障害のある子の背中にバカと絵の具で描きつける情性を欠く子供、貧しい生徒を不潔なごみ扱いする神経質な女の子、その他の無関心派も含めて総勢60人居たが、教師は60人もの子供を一人で統治できるわけがないと諦めていたか、子供のほうを見ず、黒板のほうだけ向いて授業していた。なぜか私という学級委員は番長の暴走を抑止するため筋トレに励み、いじめっ子の牽制のためいじめられっ子の横に座るなどして苦心していたものである。

大人になって30年も中間管理職をやり、似たようなことは多々あったが何とかやってこられた。私が心理的飛翔力の強い「茶色のバッタ」だったからだろう。飛翔とは逃げることではない。自分の立ち位置を能動的に変え、新しい局面を作り出すことである。そうした飛翔力を培う機能を日本社会は失っていやしないか。

著者プロフィール

遠山高史

精神科医

   

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