病める世相の心療内科⑩「土の匂い」がしなくなった日本人

2017年11月号 LIFE
by 遠山高史(精神科医)

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その女性は土の匂いがした。きりっとした顔の輪郭、くっきりした二重の光る目。強い意志を示す真一文字の口元。浅黒いが、艶やかできめの細かい張りのある肌が印象的だ。日本のタレントたちとは異なる仏像を思わせる美人である。対照的に、灰色の暗い顔をし、消耗した30過ぎの日本人の男。彼女は男より10歳以上も若いベトナム人の妻であった。

ベトナムはもともと草木の茂る深い森の国であり、そこに住む人々は生の自然と調和して生きてきた。農薬や化学物質に触れることも少なく、しかし土にまみれ、動物と触れ合い、人も群れあいながら暮らし、時に厳しい飢えにも耐え、森の恵み、土の恵みを摂取してきた。こうした生き方が心身の免疫力を高め、彼女のような健康な肌や強い意志力の源になっていることを私は疑っていない。人間の身体は自然の一部にほかならず、外の自然と呼応する生き方が良いに決まっているのだ。

しかし今どきの日本では人と自然の間に人工的な文明が介在し、直接触れ合うことを遮っている。文明の説く様々な知識は自然の本質を示すどころか、むしろ歪めていることが多い。例えば、あまりに綺麗な環境に育つとアレルギー疾患になりやすいことは証明されているが、過度の清潔志向は未だ続いている。子供の精神的成育にとって、母乳はミルクにはるかに勝るが、偏ったデータからミルクで育てることが勧められた時代もあった。そういった文明の浅い知識が、人間の身体だけでなく精神的な発達をも弱めるように働き、今そのツケが来ているように思えてならない。

多くの引きこもりがちの子供や社会適応に困難を感じる若者に、ある共通した印象がある。身体という自然と、外の自然との乖離である。いわば、自然から遠い生き方をしてきた様子がうかがえるのである。

彼らは様々な不安を訴えるが、さりとて、そこに身を切られるような焦りとか切迫感があるわけではない。好奇心が希薄なのは、飢えた経験がないせいか。一方、食べ物の好き嫌いが激しく、ゲームやネットに浸り、日がな過ごしている。いじめやパワハラを受けた様子もなく、ごく普通の家庭の出がほとんどである。身体の検査では異常は出ないものの、著しい心身の易疲労性を示すことが多く、何よりぎらぎらする情念を欠いている。

山間部の貧しい少女を見初めた豊かな国の技術者は、気持ちを落ち込ませ、今その娘に連れられクリニックにやってきた。彼は日本企業のSEとしてベトナムの山間部に赴任していた。都会の瀟洒で清潔なマンションで育ち、遅くまで塾に通い、一流大学を出ている。ただ、食事の制限が多い深刻なアトピー性皮膚炎を患っていて、ステロイド剤の使用も長く行ってきた。その彼にとって、自然に包まれた環境での生活は耐え難いようだった。

戦後どさくさ派の私は、そういった環境が好きである。いつも腹を空かせながら原っぱで穴を掘り、戦争ごっこをし、上がり湯のないドブのような銭湯の湯で泳ぎ、尿をし、飲み込んでいた。母の郷里に米をもらいに、上野からSLに乗った。SLのトイレは垂れ流しで、窓から顔を出す私の頬に、何やら冷たいしずくが飛んできたものだが、それを舐めた私の身に、異変はなかった。今までのところさしたるアレルギーもなく気持ちをへこますこともない。

著者プロフィール

遠山高史

精神科医

   

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